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本能寺の変の直後、明智光秀の謀反の情報はどこまで正しく伝わったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀。(提供:アフロ)

 まんが王国・土佐推進協議会事務局(高知県文化国際課まんが王国土佐室内)の主催により、「世界まんがセンバツ」の予選審査会が開かれた。こちら。作品の中には、「もし、明智光秀が「本能寺の変」を“配信”していたら」というのもあったという。

 たしかに、配信が実現していたらおもしろいのだが、実際は明智光秀の謀反の情報がどこまで正しく伝わったのか、検証することにしよう。

 本能寺の変が勃発したのは、天正10年(1582)6月2日のことである。明智光秀は本能寺を急襲し、織田信長を自害に追い込んだ。この凶報は、すぐに備中高松城(岡山市北区)で毛利氏と対峙していた羽柴(豊臣)秀吉のもとにも伝えられた。

 ただし、ほかの大名に対しては、どのようなルートで、どこまで伝わったのかは不明な点も多い。しかし、現代のような情報機器がない時代だったので、不正確な情報が広まったのは、事実と考えてよいだろう。

 同年6月6日、小早川隆景は本能寺の変を知らせるべく、家臣の岡氏らに書状を送った(『萩藩閥閲録』所収文書)。信長が死んだという記述は正しいが、大坂で信長の三男の三七(信孝)が死んだというのは間違いである。

 また、本能寺の変の首謀者は光秀のほか、織田信澄、柴田勝家の名が挙がっているが、こちらも誤りである。本能寺の変から4日を過ぎても、隆景は正しい情報をキャッチしていなかった。

 同年6月9日、信長の死を知った足利義昭は、ただちに上洛するので、支援するよう隆景と吉川元春に要請した(『小早川家文書』、『吉川家文書』)。結局、隆景も元春も要請に応じなかったが、その理由は正しい情勢を把握できなかったので、上洛することに躊躇したからだと考えられる。

 同年6月15日、隆景は本能寺の変を知らせるべく、家臣の粟屋氏に書状を送った(「三原浅野家文書」)。この書状では、謀反の衆として光秀のほか、筒井順慶、美濃三人衆(安藤守就、稲葉良通、氏家直通)の名を挙げるが、間違いである。

 また、別所重棟が三木城(兵庫県三木市)で丹波・播磨の牢人衆と結託し、光秀に与同したというが、こちらも誤りである。つまり、毛利方は本能寺の変から2週間を経過しても、正しい情報を得られなかったのである。これでは、まったく動きようがない。

 一方で、同年6月5日に秀吉は、信長の状況を知らせるべく中川清秀に書状を送った(「梅林寺文書」)。この書状の中で秀吉は、信長と信忠は窮地を切り抜けて、膳所(滋賀県大津市)に逃れたと伝えた。

 秀吉は信長が死んだことを知っていただろうから、虚偽の情報を伝えたことになる。秀吉は虚偽の情報を流して、少しでも味方を増やそうと考えたのだろう。

 もし、明智光秀が「本能寺の変」を“配信”していたら、いったいどうなっていたのだろうか。仮の話ではあるが、光秀も馬鹿正直に正しい情報を流さなかっただろう。自分が有利になるように、信長を討った正当性を主張し、味方になる大名を増やそうとしたに違いない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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