【「麒麟がくる」コラム】織田信長が朝廷に三職推任を強要したので、本能寺の変が起こったのか
大河ドラマ「麒麟がくる」は最終回を迎え、まだ感動の余韻に浸っている人も多いだろう。ドラマは大絶賛された反面、本能寺の変につながるトピックスが抜けていたので、いささかご不満の向きもあるようだ。そのような事情から、次の大河ドラマ「青天を衝く」がはじまるまで、アフター・フォローをしておこう。
今回取り上げるのは、三職推任の件である。
■三職推任とは
天正10年(1582)4月25日、朝廷は織田信長に対して、関白・太政大臣・将軍のいずれかに推任しようと申し出た(『天正十年夏記』)。公家・武家のもっとも重要な職を3つも挙げている事実は、以前から注目されていた。
信長に官職の授与を勧めたのは、正親町の皇太子・誠仁親王だった。誠仁親王は信長に「どのような官にも任じることができる」と伝えている(「畠山記念館所蔵文書」)。信長と誠仁親王との関係は、実に良好だった。
ところで、三職推任に関しては、信長が朝廷に強制したものだという説がある。その根拠とは、一連の事実を記した勧修寺晴豊の『天正十年夏記』の「被(助動詞の「らる」)」の用法を検討した結果、三職推任を持ち出したのは朝廷でなく、信長配下の村井貞勝であるとの指摘である。
ただし、その後の研究によって「被(助動詞の「らる」)」の用法に疑問が提示され、この説も後退せざるを得ず、朝廷から信長に申し出た可能性が俄然高くなった。
三職推任が注目されるのは、信長がどの官職を望んだのかわからないまま、本能寺の変で死んでしまったことだ。信長は、3つのうちどの官職を望んでいたのか考えてみよう。
■信長にふさわしい官職
最初に、将軍職について検討しよう。信長と決裂した足利義昭は力を失ったとはいえ、いまだ征夷大将軍の地位にあった。したがって、信長の任官は困難であり、その手順は義昭の将軍職を解いてから、信長を将軍職に就ける必要がある。
朝廷にとっては義昭を解官する手続きが面倒であるが、敢えて信長に将軍職を提示したのは、その準備があったからだろう。武家の棟梁としてもふさわしい。
太政大臣はどうだろうか。天正10年(1582)5月、近衛前久が太政大臣の職を辞しているので(『公卿補任』)、信長を太政大臣に任官することを想定しての措置であったとの指摘がある。ただし、十分な史料的裏付けが乏しく、前久が太政大臣を辞任したことは、単なる偶然かもしれない。
また、関白は五摂家だけに任官が許されてきたので、信長がこの職に就くというのは、現実問題として難しいだろう。
では、三職推任の問題は、どのように考えるべきだろうか。
■鍵を握る『天正十年夏記』
三職推任の問題の鍵を握るのが、『天正十年夏記』の記述だ。信長方との交渉に臨んだ勧修寺晴豊は、「関東討ちはたされ珍重候間、将軍ニなさるへきよし」と回答している。
この時点で、信長は甲斐の武田勝頼を天目山(山梨県甲州市)で滅ぼしていたので、朝廷は信長を将軍に任じるのが妥当であると考えたのだ。武家の棟梁として将軍はふさわしい官職であり、朝廷の意向は将軍職だった。
ただし、信長が朝廷からの提案を受け入れる意思があったか否かについては見解が分かれ、信長は最初から将軍職を受ける意思がなかったとも指摘されている。
■不明な結末
その後の経過を確認しておこう。信長は、正親町天皇と誠仁親王に対して返書を送った。また、晴豊も村井貞勝の邸宅を訪れて、信長からの返事を聞いている。ただ残念なことに、信長の回答は伝わっていない。
信長が3つの官職の中からどれを選択したのか、あるいは3つとも拒否したのか不明なのだ。結局、そのような事情があって、信長がどの官職を受けるつもりであったか、大きく見解が分かれて論争となっている。
少なくともいえることは、信長は官職に執着がなかったことだ。官職がなくても、信長は朝廷との良好な関係を保ち、各地の高いで勝利した。したがって、信長は意外にもすべてを断ったのではないだろうか。高い官職に就いて朝廷の縛りを受けるよりも、フリーで動くことを望んだのかもしれない。