野蛮か?妥当か?『三度目の殺人』のないスペインで、死刑制度の意味はどう問われるのか?
是枝裕和は、宮崎駿、北野武と並びスペインで最も人気のある日本人監督だろう。「人気がある」というのは、地方都市の映画館で一般のお客さんが呼べる、という意味である。『誰も知らない』、『歩いても歩いても』、『そして父になる』、『海よりもまだ深く』はスペイン人の友だちと見に行った。ゆっくりとしたリズム、何も劇的なことが起こらない展開が、日本映画が海外で一般受けしない大きな理由となっていたが、是枝作品はそれを乗り越えたように見える。
サン・セバスティアン映画祭では24時スタートの深夜上映にもかかわらず満員でキャンセル待ちが出たほど。観客の投票で選ばれる「観客賞」はノミネート16作品中9番目で逃したものの、ランク最下位には『マザー!』、下から2番目には『ハッピー・エンド』とそれぞれダーレン・アロノフスキー、ミヒャエル・ハネケと大物監督作が並んでいるのだから、気にすることはない。
先進国日本には死刑制度がない、という美しい誤解
それよりも、この是枝監督の新作がこの国でどう見られるのかが気になる。というのもスペインには「第三の殺人」、つまり死刑がないからだ。先進的で民主的な日本に、彼らの見解からすれば“野蛮な”死刑制度があることは、実はあまり知られていない。
この作品は、人が人を裁くことの罪深さと司法制度の限界、死刑制度の意味を問うている。検察官も弁護人も裁判官も「神」でなく「人」である。誰もタイムマシーンで時間を遡れないし、犯人の体や頭に入って罪を追体験することも動機を知ることもできない。頼れるのは証言と証拠だけだから、必ず真実にたどり着けるとは限らない。
検察側も弁護側も真実ではなく「真実らしく思えること」に基づいて議論し、裁判官も「真実らしく思えること」に基づいて判決を下す。重要なのは曖昧な「心証」であって、揺るぎない「真実」ではないのだ(プロではない裁判員は、特に心証に揺れることだろう)。
レフェリーは「真実らしいことに笛を吹く人」
これは例えばサッカーにおけるジャッジも同じである。
審判は神ではないから、実際はオフサイドではなくとも「オフサイドに見えたら」笛を吹く。レフェリーは「真実の笛を吹く神」ではなく、「真実らしいことに笛を吹く人」なのだ。当然、人間だからミスジャッジもする。オフサイドの旗の上げ損ないは大したことではないが、死刑判決の間違いは大変だ。人間が裁く限りミスは避けられない――これが死刑制度反対派の言い分であり、これには賛成派も正面からの反論はできないのではないか。
『三度目の殺人』を見たスペイン人の反応が“だから死刑って駄目なのよね”で終わらず、役所広司演じる三隅がとんでもない殺人鬼だったとして、その場合死をもって罪を償わせることが妥当か否か、にも想像を巡らせるものであってほしい。