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酷暑の中北を目指し続けた、バーク・ウィルズ探検隊

華盛頓Webライター
credit:unspalash

オーストラリアは長い間、開拓者の間では未開の地として捉えられていました。

そのこともあって探検が盛んに行われるようになり、今回紹介するバーク・ウィルズ探検隊もその一つです。

この記事ではバーク・ウィルズ探検隊がオーストラリア大陸の北側のカーペンタリア湾に向かった軌跡について紹介していきます。

踏んだり蹴ったりのバーク決死隊

1860年、クーパー・クリークはヨーロッパ人探検家にとって最果ての地でした。

バーク隊もまた、ここを越えて未知の領域へと挑むべく、11月11日にこの地に到達したのです。

しかし彼らは疫病をもたらすネズミの群れに悩まされ、やむなく川下にキャンプを移動、キャンプ65、すなわち「フォート・ウィルズ」を設営しました。

このときの大方の見方では、彼らは酷暑を避けるため、しばらくここで待機するはずでした。

しかし、バークの心はすでに北へと急いていたのです。

12月16日、彼は突如、3か月分の食糧を持ち、ウィルズ、キング、グレイと共にカーペンタリア湾への旅を決行しました。

1861年2月9日、彼らは海に近いフリンダーズ川デルタに到達するも、湿地と食糧不足のため、ついに海岸まで辿り着けませんでした

すでに5週間分の食糧しか残っておらず、彼らは絶望的な気持ちでクーパー・クリークへの帰路についたのです。

しかし今度は雨季が彼らを襲い、豪雨と飢えが行く手を阻みました。

彼らは次々とラクダを失い、射殺して食料とすることになります。

最後には唯一の馬ビリーもディアマンティナ川の岸で命を落としました。

捨てられた荷物やラクダの骨は、後の時代に「復路キャンプ32」として特定されるものの、その頃、彼らは飢えに耐え、必死に前進を続けていたのです。

隊員のグレイは赤痢にかかり、体調不良を訴えたものの、バークはそれを仮病だと決めつけました。

さらにグレイが隠れて小麦粉を盗み食いしたことを知ると、怒りに任せて彼を殴りつけたのです。

弱り切っていたグレイは、4月17日、ポリゴナム湿地と呼ばれた場所で息を引き取りました

彼の死因は赤痢とされているものの、バークの行動は後に議論の的となったのです。

生き残った3人は、グレイを埋葬し、自らも体力を回復させるために1日足を止めます

しかし、彼らの体力は限界に達しており、この先の運命がどれほど過酷なものになるか、誰も想像していなかったのです。

参考

アラン・ムーアヘッド、木下秀夫訳(1979)『恐るべき空白――死のオーストラリア縦断』、早川書房

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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