【先取り「鎌倉殿の13人」】初の武家政権を築いた平清盛。その最期は灼熱地獄の悲惨なものだった
来年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のキャストが次々と発表されている。平清盛を演じるのは、松平健さんだ。松平健さんといえば、「暴れん坊将軍」で一躍人気者になった。今回は、平清盛がいかなる人物だったのか考えてみよう。
■平清盛とは
永久6年(1118)、平清盛は忠盛の子として誕生した。しかし、以前から清盛の実父は忠盛ではなく、白河法皇であるとの説がまことしやかに流れていた。そうでなければ、太政大臣まで大出世できなかったというのである。ただ、明確な根拠はなく、清盛が白河法皇のご落胤か否かは不明である。
実は、清盛について書かれたもの(特に軍記物語など)は、おおむね悪しざまに罵っていることが多い。日本の歴史上、ここまで酷く書かれている人物は少ないだろう。例外なのは、『十訓抄』(13世紀半ばに成立した教訓説話集)くらいである。
■殿下乗合事件
清盛の蛮行で有名なのは、殿下乗合事件であろう。以下、『平家物語』の記述からまとめておこう。
嘉応2年(1170年)10月、鷹狩から帰る途中の平資盛(重盛の次男)の一行は、参内に向かう松殿基房の車列と遭遇した。基房の従者は、格下の資盛が下馬の礼をとらないことに怒り、資盛を馬上から引き摺り下ろして恥辱を加えた。
この話を聞いた祖父の清盛は大いに怒り、基房が直後に行われた新帝元服加冠の儀に参内した際、300騎の兵でその車列を襲った。そして、馬から随身たちを引き摺り下ろすと、髻を切り落とした。これは、武士にとって最大の屈辱である。清盛の報復により、基房は参内できないという恥辱を味わった。
しかし、重盛はこの行為を許さず、資盛を伊勢国で謹慎させると、襲撃に加わった侍たちを勘当した。これにより平氏の評価は下がったものの、かえって重盛は評判を良くした。冷静沈着な子の重盛と非道な暴君の清盛が見事に対比されている。
ところが、この話は誤りで、実際に襲撃を計画したのは重盛であって、清盛は逆に鎮めようとしたという(『玉葉』など)。清盛の蛮行は、『平家物語』の創作なのである。
■清盛の最期
『平家物語』は、清盛の最期についても壮絶な描写を行っている。治承5年(1181)2月、清盛は熱病にかかり、翌日には重体に陥った。
清盛は水も喉を通らず、体は火のように熱く、あまりの熱さに周囲の人々は近寄ることさえできなかった。清盛は、ただ「熱い熱い、痛い痛い」と言うだけだった。
そこで、比叡山から汲み出した千手井の水を湯船に入れたが、清盛が湯船の中に入ると、たちまち水が熱湯になった。清盛の体に水を掛けても玉のようにはじくか、あるいは水が炎となって、殿中に黒煙となって広がったという。
そこで、妻の時子は熱さに耐えながら、清盛の枕元に近寄って遺言を求めた。清盛の遺言とは、「もう何も思い残すことはないが、源頼朝の首を見られないのが残念である。死後は供養塔も仏事も不要なので、頼朝の首を刎ねて墓の前に供えるのが最大の供養である」と述べた。
清盛は息も絶え絶えにもがき苦しみ、最期は身悶えしつつ跳ね回った挙句に亡くなったという。このように『平家物語』では清盛の最期を悲惨な形で描いているが、これが事実か否かは不明である。