NHK大河「麒麟がくる」光秀が祈願した「戦神」の謎
今月7日に終了したNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の最終回を見ていて、興味深いシーンがあった。
俳優長谷川博己が演じる明智光秀が「本能寺の変」を起こす4日前、愛宕山(京都市右京区)に登って、一体の仏像の前で祈っているシーンである。山から降りた光秀は、家臣らにこう告げる。
(家臣)「殿、先日は愛宕山で夜を過ごされたそうで。愛宕権現は戦神。めでたきお告げがございましたか」
(明智光秀)「あった。毛利を一気に打ち破り、殿(織田信長)の武名が一気に轟きわたる。……昨日まではそうであったが、お告げが変わった。京へ参る」
(家臣)「京の何処へ参りまする?」
(明智光秀)「本能寺。我が敵は本能寺にある!」
大河ドラマ内では、愛宕権現への祈願のシーンはさらりと流された感があったが、実際には光秀は2日間にわたって愛宕山に滞在している。
信長の家臣、太田牛一による『信長公記』には、当時の様子がリアルに描かれている。それによると5月27日、愛宕山頂上の寺、太郎坊で三度、おみくじを引いたと書かれている。
翌28日には、場所を西坊という山中の別の寺に移して連歌の会を催した。光秀は、
「ときは今 あめが下知る 五月かな」(五月雨が降りしきるこの時期、今こそ、私が天下を取る時である)
と、揺るぎない心境を披露し、歌を奉納。光秀は愛宕権現の前で、主君信長を討つ不退転の決意を表明するのである。
愛宕山という聖なる存在が、日本の歴史を変えたといっても過言ではない。
愛宕山は京都盆地の西方に位置する標高924mの山だ。愛宕山の対面、東方には延暦寺のある比叡山(848m)がそびえている。比叡山が富士山のようにシンメトリーで、女性的な美しさを見せる一方で、愛宕山はいかにも人を寄せ付けない男性的な風格をたたえている。
全国的な知名度は、比叡山のほうが上。だが、京都人にとってはどちらかといえば、愛宕山のほうに馴染みがある。京都人なら、生涯に一度は愛宕登山を経験するのが、常識になっている。
愛宕山はハッキリ言って、風光明美な山ではない。見晴らしの良い場所も少なく、鬱蒼とした山道を、ただひたすら頂上の愛宕神社を目指して歩く。歩き慣れた人で、麓の清滝から1時間半はかかる。初心者なら2時間半ほどは必要だろう。
ちなみに一般登山客が使える車道や、ロープウェイなどはない。たまに遭難死する人が出るほどだ。
私は多くの山岳寺院・神社を参拝しているが、愛宕神社は日本でも屈指の「辿り着くのが困難な神社」といえるだろう。だが、それこそが愛宕山の真骨頂なのである。江戸時代までは修験の聖地であり、山伏が山岳修行にいそしんでいたのだ。
創建は大宝年間(701〜704年)で、修験道をはじめた役行者が開いたと伝えられている。平安、和気清麻呂が境内地に白雲寺なる寺院を建立する。そして、神仏総じて「愛宕権現」の名称で、神仏習合の修験道場になっていく。
『信長公記』にあるように、光秀が参詣した当時の姿は、どちらかといえば仏教寺院の要素が強かった。江戸末期までには境内に勝地院、教学院、大善院、威徳院、福寿院、西坊などの坊(白雲寺の塔頭寺院)が立ち並ぶ一大仏教聖地となり、多くの社僧が住持した。東の比叡山延暦寺にたいして、西の愛宕山愛宕権現といった位置づけであっただろう。
祀られていたのは勝軍地蔵という特殊な仏像である。勝軍地蔵は甲冑姿の菩薩が、馬に乗った姿をしている。中世、近世を通じて多くの武将が、愛宕権現に武運長久を願って登山した。光秀が愛宕山に登って、クーデター成功を祈願した理由はここにあったのだ。
後に徳川家康も江戸に幕府を開くと、江戸を大火から守る火伏せの神として分社を建てた。これが、港区愛宕の愛宕神社の起源である。
それが明治維新時に大きな節目を迎える。1868(慶応4、明治元)年に神仏分離令が出される。それまで、混淆していた神と仏を切り分けよ、という法律である。この神仏分離令によって、廃仏毀釈という仏教破壊運動が起こった。
白雲寺をはじめとする神仏が混淆した寺院群は軒並み廃寺処分になり、愛宕権現は「愛宕神社」と名称を変えた。こうして愛宕山からは、一切の仏教色が排された。現在、京都の愛宕神社は全国に900を数える愛宕神社の総本宮としての位置付けである。
いま、往時の寺院の痕跡としては、愛宕神社の石灯籠に刻まれた寺院名や山門など、一部を残すだけである。
大河ドラマにも登場した、光秀が祈願した勝軍地蔵は、京都市西京区の天台宗金蔵寺に移されている。
余談だが、京都のお盆の行事に「五山の送り火」がある。これは、お盆に戻ってきたご先祖様の精霊を、山肌に文字などを象った火を灯して、あの世にお戻しする仏教行事である。
五山とは、「大文字」「左大文字」「舟形」「妙法」、そして「鳥居型」の5つ。鳥居型は、愛宕山の麓にある小高い山にて灯される。
送り火は仏教行事のはずなのに、神社を象徴する鳥居が灯されるのである。諸説あるが、送り火の「鳥居型」は、愛宕神社への参道にある「一の鳥居」がモデル。一の鳥居は、今でも残っている。明らかに神仏が習合している。これは、かつての愛宕権現の名残りなのである。
五山の送り火は、廃仏毀釈時に「仏教的な民間信仰」とのことで中止に追い込まれている。送り火の禁止措置は1882(明治15)年まで続いた。
きっと、織田信長と明智光秀の魂は、ともに愛宕山へと昇ったに違いない。間違っても、(信長が焼き討ちをした)比叡山でないことだけは確かだろう。今年の送り火は、織田信長と明智光秀を想って手を合わせたい。