耳障りな声を社会に響かせること
4月から始まったフラワーデモに毎月参加している。フラワーデモとは、3月に相次いだ性犯罪の無罪判決をきっかけに生まれたアクション。
参加者は花を持ち、あるいは花柄のアイテムを身につけて広場に立つ。
話したい人はスピーチする。
聞きたい人は耳を傾ける。
プラカードで思いを表明したい人はそうする。
フラワーデモの前から、この国で性暴力被害者への支援が乏しいことや、性犯罪に関する刑法や捜査が被害者にとってあまりに酷なものであることを訴えてきた人はもちろんいた。
でも、性暴力被害は報じられづらい。被害者が表に出て語ることには困難が生じる。「先進国」と言われる日本で被害者が理不尽な境遇に置かれることが、信じられない人もいる。そして日本では「運動」めいたことが、とかく嫌われる。
誰となく躊躇する思いに風穴を開けたのが、相次いだ無罪判決だったのだろう。もちろん、伊藤詩織さんに関する報道や、#metoo、2017年の性犯罪刑法改正によって、少しずつ土台は固められていたと思う。
4月から5回のフラワーデモに参加し、回を重ねるごとに確信するのは、続けなければいけないということだ。
内閣府調査によれば、無理やり性交された経験のある女性は13人に1人の割合でいる。男性は67人に1人。どうしてこの結果が、未だに深刻に受け止められていないのだろう。暗数が多いことは自明なのに、支援や対策は認知件数ベースでしか予算が組まれていないのではないか。
「なぜ抵抗できなかった?」と被害者が問われるのはなぜか。被害者は逃げられるという「常識」を信じ込んでいるのは被害者でない人なのに、その反証にはエビデンスが求められる。だから専門家が論文を書くが、それが広まるのに時間がかかる。被害者がいくら声を枯らしても、被害に遭ったことのない人がそれを否定する。
#metooやフラワーデモなど、女性が主体的に動くと、「共感の運動」「感情的」と揶揄される。それでは、「逃げようと思えば逃げられたはず」という強姦神話にはエビデンスがあるのか。それこそ、加害者への共感を元に培ってきた文化ではないのか。加害者に寄り添う屁理屈が、これまでどれだけ被害者を傷つけてきたか。
襲われたときにフリーズすること、抵抗できないことを専門家が伝えているのに、被害者に無理を強いる規範で裁判が行われる。まるで裁かれているのは被害者かのようだ。
2017年の性犯罪刑法改正時、日本弁護士連合会(日弁連)は、強制性交の要件の拡大や監護者性交等罪の新設に反対した。
被害者支援団体など57団体が日弁連に抗議の意見書を提出したが回答はなかった。それが、弁護士にとって被害者など議論に値する相手ではないという意味だったのかどうかは知らない。日弁連は私の取材にも応じなかったからだ。
現状を変えたくない人たちにとって有効で、なおかつ楽な方法は、声を上げる人を無視することだ。無視したり、ひとこと簡単な言葉でバカにして、相手を萎縮させる。論点を巧妙にずらして、議論の席にはつかない。
そうであるならば、現状を変えたくない人にとって耳障りなことを言い続ける。
「加害者にとって居心地の良い社会を変えたい」
フラワーデモで聞いた言葉だ。被害者が声を上げることを一番嫌がるのは誰か。こんなに簡単な問いはない。被害者の口をふさごうとするのは、加害者がすることだ。
来年、さらなる刑法の見直しに向けて法務省の検討会が開かれることが決まった。もしも前回の検討会メンバーがそのまま引き継がれるのであれば、暴行・脅迫要件の緩和などに理解があるメンバーは12人中2人程度と予想されている。被害当事者団体らが求めるのは、被害者視点を持つメンバーを加えることだ。
検討会メンバーが発表されるのは来年3月の予定。フラワーデモは、その3月まで続けられる予定だ。
※記事内の画像はすべて筆者撮影。