被害者に「なぜ逃げなかったのか」と聞いてはいけない理由
「フリーズ(凍りつき)は、いたって普通の反応です」
これは、ロンドンのレイプクライシスセンター(性暴力の被害者支援センター)に掲示してあったポスターの文言だ。
襲われて恐怖に陥ったときに、人の脳は緊急ブレーキを発信し体の動きを止めることがある。フリーズ(もしくは凍りつき)と言われる反応だ。フリーズは、動物にも見られる擬死状態(死んだふり)の前段階。動いているものを狙う捕食者の前で擬死状態になることが、敵の目をくらまし生存につながると学習した結果と言われる。
不動状態、レイプ被害者の多くが経験
被害者支援に取り組む臨床心理士で、目白大学人間学部心理カウンセリング学科講師の齋藤梓さんによれば、フリーズの概念は心理学や被害者支援の現場では広く知られてきたこと。
「最近ではTonic immobility(擬死反応/強直性不動状態)という言葉で研究が行われています。これは、意識はあるけれど筋肉が硬直して身体が動かなくなり、発声が抑制され、痛みを感じにくくなるといった特徴がある状態です。
たとえば、スウェーデンで行われた、レイプ被害女性のための救急クリニックを訪れた女性を対象にした調査(※)では、強直性不動状態が、レイプ被害者の70%に見られたことが明らかになりました」(齋藤さん) ※Moller et al.,(2017)
性被害に遭うときも、人は固まる
ショッキングな場面や不測の事態に直面したとき、「体が動かなくなる」経験をしたことのある人もいるのではないだろうか。また、通り魔事件などのニュースを聞いて、「自分が現場にいたら固まってしまうだろう」と想像する人もいるはずだ。
しかし、性的に襲われる場面の場合、被害者側のフリーズ反応はしばしば理解されないことがある。おそらく、命の危険に比べて、性的な侵襲は程度が浅いと考えられているか、そもそも性的に襲われるのがどういうことか知らない人も多いためだろう。
実際のところ、性的に襲われそうになった際に「殺されるかもしれない」という思いを抱く人は少なくない。また、夜道で急に襲われるようなレイプ被害だけではなく、知人からの性的行為の強要や、電車の中の痴漢行為でもフリーズ反応は起こる。被害者や加害者の性別は関係ない。
以前、痴漢被害に遭ったことのある男性たちに話を聞いたところ、彼らからは「怖かった」「逃げられないと思った」などの回答があった。【参考】「声とかでないし、逃げられないと思った」 男性痴漢被害者の声を聞く(2015年11月11日)
「なぜ逃げなかったのか」聞かない理由
齋藤さんによれば、被害者支援の現場では、「なぜ逃げなかったのか」を聞くことはないという。なぜなら、「逃げられないことが当たり前だから」。また、「なぜ」を問うことは、被害者の自責や、さらなる傷つきにつながる。
齋藤さんらは司法関係者に、「なぜ逃げなかったのかという聞き方をしないでほしい」と伝え、できるだけ「そのとき何を思ったのか」「何を考えたのか」という聞き方をするよう勧めている。「なぜ」の問いは当時を振り返って理由を考えさせるため、適切な回答を得るためには不適当ということもある。
性被害者を取材するメディアにも、支援団体などと連携し、この「聞き方」を伝え始めている。
知ることから、支援や対策を
子どもの防犯教室などでは、「とっさのときに大声を出す」訓練が行われることがある。危険を感じたときに大声で助けを求めたり走って逃げたりするのは誰でもできることではなく、訓練が必要なことだ。
性被害者のフリーズ反応は、専門家や支援者の間ではよく知られている常識だ。しかしまだ広く知られている知識ではないようだ。
この記事を書いたきっかけは、性犯罪事件の報道について「本気で逃げようと思えば逃げられるはずだ」という声を聞いたり、ツイッターで痴漢について「声を上げて助けを求めればいいのになぜできないのか」といった反応を見たことだった。
知られていないのであれば、何度も伝えていくしかない。支援や対策は、逃げられない事実を社会が知ることからスタートするはずだ。