Yahoo!ニュース

「北海道はロシア」というロシア要人ビックリ発言を真顔で徹底否定してみる

坂東太郎十文字学園女子大学非常勤講師
スターリン(右端)は確かに狙っていた(写真:ロイター/アフロ)

 ロシアの有力政治家が「一部の専門家によると」と前置いた上で「ロシアは北海道にすべての権利を有している」と発言し、話題となりました。「そんなバカな」だし実態としても「そんなバカな」ですが、何しろれっきとした主権国家であるウクライナへ戦争を仕掛けた国ですから戯言と放置するには危険を感じます。

 そこで本稿では北海道は日本領であるという当たり前を確認した上で「何とかにも三分の理」部分まで考察してみます。

ポツダム宣言と日露和親条約

 問題の発言はセルゲイ・ミロノフ「公正ロシア」(政党)党首。彼は同時に北方領土問題を「日本の失敗に終わった」とも述べているので「北海道」に北方領土は含まれていないもよう。本稿もそこを前提に進めます。

 ミロノフ氏はいくつかあるプーチン人脈のうちソ連崩壊直後、まだ一介のサンクトペテルブルグ副市長(後に第一副市長)にすぎなかった頃に知遇を得た「市役所人脈」の有力者で大統領とは極めて近いと判断してよさそうです。

 発言の根拠となる「一部の専門家」が誰で、いかなる言説を引いたか明らかではありません。おそらく北海道に多く住まう先住民族アイヌを絡めていましょうが憶測の域を出ないので後段で考察します。

 北海道が日本の領土である明確な根拠の1つが日本の受諾で先の大戦を終わらせたポツダム宣言。米英ソ首脳会談で出され、日本が受諾した1945年8月14日にはソ連も加わっています。そこには「日本国ノ主権」の範囲に「北海道」と明記されているのです。日露(ソ連時代も含む)間で北海道がかかわる国境に関する歴史上の合意は1855年調印の日露和親条約も有効で「境」を「エトロフ島とウルップ島との間ニあるべし」としました。緯度で観察すると択捉島の北限より北海道はすべて南側。

 大戦最末期に(45年8月9日)ソ連が対日参戦し、その戦争状態を終えた56年の日ソ共同宣言にも北海道の文言はなく、代わりに領土保全原則を確認しているのです。

 以上の事実から北海道が日本の領土であるのは疑いありません。

スターリンの野心は米大統領により頓挫

 ただし対日参戦した時点でソ連の最高指導者スターリンが「あわよくば北海道も支配下に置こう」との野心を抱いていたのはほぼ確実です。

 大戦を通して日ソ間で結んだ中立条約が有効で、参戦はソ連が約束を一方的に破棄した結果。ただしこの行為は米英ソが結んでいたヤルタ秘密協定で正当化されています。

 協定はソ連が連合国に与して対日参戦すべきと約定。南樺太(1905年の日露戦争講和条約で日本が獲得)回復と「千島列島」(1875年の樺太千島交換条約で日本領となる)引き渡しが条件でした。

 ただしポツダム宣言を受諾した旨を昭和天皇の「玉音放送」で知り、日本が「終戦の日」とする8月15日時点でソ連は手に入れていません。18日には千島最北端の占守島にソ連軍が戦闘を仕掛けて激しい戦いに発展します。

 終戦の確定は停戦協定がまとまった時点(9月2日)なのでスターリンは同日までに秘密協定で約束された地を占領し、あわよくば北海道北部まで得ようともくろんでいました。16日にスターリンはトルーマン米大統領にその旨を要求し、18日には断られています。

 この間、連合国軍の実質的な対日占領機関トップに就任していたマッカーサー連合国軍最高司令官の求めにも応じずソ連は南下するも8月28日には進駐軍が日本へ上陸、30日 にマッカーサー自身が厚木飛行場に降り立って急速に米軍主体の占領体制が整うにつれトルーマンは南下をあきらめて現在の北方領土地域の占領で矛を収めたのです。

アイヌに対する日露双方の対応

 先に「何とかにも三分の理」がありそうと述べました。その1つがアイヌの存在です。

 アイヌはオホーツク一帯に居住してきた先住民で和人(日本人)ともロシア人とも異なります。独自の言葉と文化を有した民族集団なのです。

 2018年12月19日付「北海道新聞」朝刊によるとプーチン大統領がクリール諸島(北方領土を含む千島列島)などに住んでいたアイヌを「ロシアの先住民族」に認定する考えを示したとされます。拡大解釈すれば北海道のアイヌは弾圧されている。「ロシアの先住民族」を救出するなどと強弁して「ロシアは北海道にすべての権利を有している」を正当化するかもしれません。

 確かに日本のアイヌ政策は「弾圧」に等しいものでした。1899年の北海道旧土人保護法制定(1997年廃止)以降も同化政策を採り、文化も言葉も破壊したのです。旧土人とはアイヌを指し、蔑称であると長らく反発されてきました。日本が法的(アイヌ施策推進法)に先住民族と認めたのは実に2019年。

 和人の過去の扱いには間違いなく問題がありました。だからといって「アイヌはわが国の先住民族だ」とロシアが主張できるかというと大いに疑問です。

 日露和親条約でロシア領と決まったウルップ島以北のアイヌは樺太千島交換条約で全千島が日本領に変わった時点で多くがカムチャッカ半島(今も昔もロシア領)か色丹島へ移住。樺太アイヌは1905年以降、日本が領有した南樺太に集住していました。

 大戦末期のソ連軍南下の際、現在の北方領土および南樺太のアイヌは日本人として扱われ多くが北海道へと移住したのです。

江戸時代もロシアが北海道を日本領と認めていた証拠

 最後に日露和親条約に至るまでの歴史的経緯など。何しろウクライナ侵攻の正統性の根拠に800年近く前に滅亡したキエフ大公国を持ち出すプーチン大統領ですから「条約締結前の北海道は日本領でなかった」などと言い出しかねないので。

 ロシアが徳川幕府に送った最初の使節が1792年のラクスマン来航です。根室を訪れて通商と江戸湾入航を求めました。対応した松前藩の報告を受けた幕府は要望を拒否した上で、どうしても希望するならば当時、唯一の外交窓口であった長崎へどうぞと入港許可証を与えたのです。

 1804年、その許可証をもって正式使節として長崎に来航したのがレザノフ一行。対応に窮した幕府が右往左往している間止め置かれ、結局は拒絶されて帰国を余儀なくされました。その際に憤激した一部の部下が帰路に樺太や択捉島を攻撃。大いに慌てさせます。

 警戒心を強めていた矢先の11年、ロシア軍艦長ゴローウニンが国後島で捕らえられて箱館・松前に監禁される事件が発生。結局はロシアがレザノフ配下の暴行を謝罪するという形で13年解放されたのです。

 この頃のロシアはナポレオン戦争の真っ最中。幕府も断片的ながら事件の交渉過程で知り得たようで本格的なロシアの南下は極東では当面起きないと踏んだようです。

 そして53年。アメリカのペリー率いる艦隊が日本と何らかの条約を結ぶべく出立したとの報を受けたプチャーチンが急ぎ長崎に来航。幕府全権と交渉して和親条約が結実しました。

 このように当時のロシアが幕府を正式な交渉相手とみていたのは確実で、言い換えると「北海道は日本領ではない」という認識はなかったのです。ラクスマンが北海道(根室)へ訪れて応対先は長崎といわれた時に入港許可証を幕府から得た時点で間違いありません。

十文字学園女子大学非常勤講師

十文字学園女子大学非常勤講師。毎日新聞記者などを経て現在、日本ニュース時事能力検定協会監事などを務める。近著に『政治のしくみがイチからわかる本』『国際関係の基本がイチから分かる本』(いずれも日本実業出版社刊)など。

坂東太郎の最近の記事