【富田林市】羽曳野・尺度の町会が富田林の夏・秋祭りに参加する謎!ふたつある同じ名前の神社に秘密が
富田林は夏祭りも秋祭りも盛んで、夏祭りの盆踊りでは、だんじりの法被のデザインを象ったTシャツ姿の方々が、模擬店でいろいろ販売している光景は、見ているだけでも楽しいもの。
ところが、以前からとても気になる点がありました。
それは、尺度という町会が富田林の祭りに参加していること。この尺度とは、富田林市と境界を接しているとはいえ、羽曳野市の町名です。
しかし、この尺度は、夏祭りだけでなく、秋祭りのだんじりや春に行われた河内俄(にわか)の公演の際にも、他の富田林の町会とともに口上で参加しています。これはいったいどういうことでしょうか?
現在の尺度を地図で示すとこのようになり、富田林の喜志新家、平町、梅の里と接しています。確かに富田林に近く、富田林・喜志地域と同じ文化圏と考えても不思議ではありません。
私は最初、尺度地域が元々現在の富田林地域に属していて、何らかのタイミングで富田林から羽曳野側に移ったのではと思いました。
例えば富田林の彼方(おちかた)地域は、元々、錦部郡(にしごりぐん)という現在の河内長野地域側に属していたからです。
ところが調べると、尺度のあたりは富田林地域が多数属している石川郡ではなく、その北側にある古市郡にあった尺度郷だとわかりました。
1880(明治13)年に、西坂田村と新家村(喜志新家の北側にあった)が合併して、尺度村が誕生します。
9年後の1889年に5つの村が合併して西浦村となり、そののち、さらに合併が進んで最終的に羽曳野市となります。つまり元々富田林・喜志だった一部が羽曳野に移ったということではないのです。
という風に、調べているうちにある神社がかかわっていることがわかりました。それは利雁神社(とかりじんじゃ)です。
羽曳野市尺度に鎮座している神社ですが、驚いた事に同じ名前の神社が富田林市内にもあり、それが美具久留御魂神社の境内にあることがわかりました。
なぜこうなったのかといえば、元々、式内社として尺度に鎮座していた利雁神社が、1907(明治40)年に美具久留御魂神社の境内に遷座(せんざ:神社を移す)したからです。
そのため尺度のだんじりが宮入りするのが美具久留御魂神社で、その境内にある利雁神社に対して行っている理由がうなづけますし、夏祭りも含めて喜志地域との結びつきが深いわけだったんですね。
ところが元あった場所に、利雁神社の社殿が再び造営されたために、同じ名前の神社がふたつ、近くに誕生したことになったのです。
新たに造営した経緯や時期などは不明とのことですが、1907(明治40)年にいったん建水分神社に合祀され、1950(昭和25)年5月に再び分祀されて元に戻ったた板茂神社のように、地元に神様がいないことに対する住民の想いのようなものがあったのかもしれません。
利雁神社は、元々利雁山(戸刈山)の山上にあったとされ、「王の宮」と称していたそうです。それは現在、同じ尺度にある環境農林水産総合研究所のあたりに、その山があったという情報もあります。
さて、美具久留御魂神社から巡礼街道を歩くこと20分くらいで羽曳野市側に入ります。
尺度の集落に入りました。集落の間を通っていきます。遠くに鳥居が見えてきました。
西方寺です。利雁神社はこのすぐ横にあります。
もうひとつの利雁神社が見えてきました。
利雁山の社殿は安土桃山時代(天正年間)の兵乱で消失、1612(慶長17)年にこの地に遷座しました。
利雁神社の祭神は保食神(うけもちのかみ)、品陀別命(ほむたわけのみこと:応神天皇)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)です。
一説には饒速日命(にぎはやひのみこと)の末裔の依羅(よさみ)氏の祖神を祀るとの記録があります。
帰りは大阪外環状線にでました。富田林市に戻る際に、小さな橋を発見。
羽曳野市から富田林市に戻る際には、小さな橋を渡る必要があります。それが尺度橋という名前です。ただあまりにも小さい橋のため、大阪外環状線を走る車からはほぼ確認できないと思われます。
という事で、ふたつの利雁神社を参拝しながら謎を解いてみました。不思議と思える疑問もこうやって調べてその理由・根拠を知ったうえで改めて参拝すると、違った気持になります。
利雁神社
住所:大阪府富田林市宮町3丁目2053 美具久留御魂神社境内
アクセス:近鉄喜志駅から徒歩13分
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