「どうする家康」源三郎は、武田信玄の将兵にボコボコにされることがありえたのか
大河ドラマ「どうする家康」では、源三郎が武田氏の人質となっていた。源三郎は武田氏の将兵にボコボコにされていたが、あり得る話なのか考えてみよう。
永禄11年(1568)12月、武田氏が今川氏真との同盟を破り、駿河に侵攻すると、三浦与一郎が氏真から離反し、今川家の人質となっていた源三郎を連れて武田氏の陣営に駆け込んだ。信玄は源三郎を甲斐に連行し、厳重に身辺警護を行ったという。源三郎が人質になった経緯だ。
残念ながら、甲斐における源三郎の生活は、何もわかっていない。ドラマの内容では、源三郎が武田氏の将兵の訓練に参加させられ、ボコボコにされていた。源三郎の住む所も食事も粗末だった。本当に源三郎は、こういう環境下にあったのか。
ドラマを遡ってみると、幼い頃の家康が織田家で拘束された際、織田信長が家康を投げ飛ばしていた。源三郎の扱いより少しマシだが、厚遇されていなかったのは、誰の目にも明らかである。家康もまた、信長にボコボコにされていたのだろうか。
ところで、そもそも武田氏の将兵が「タイガーマスク」の「虎の穴」のごとく、決死の思いでトレーニングを行っていたのか疑問が残る。乗馬、弓矢、鉄砲などは、武士の嗜みとして、個々で行ったと想像されるが、そんなに時間は取れなかっただろう。
また、武田氏将兵のトレーニングシーンは、現在でいうところの「総合格闘技」のようなもので、この当時からあったのか疑問が残る。そんなに目くじらを立てる必要はないが、フィクションであろう。
人質の扱いはどうだったのか。源三郎だけでなく、人質の生活を詳細に物語るたしかな史料は、寡聞にして知らない。一般論でいえば、人質は同盟締結の証なので、乱暴に扱うことはなかっただろう。ましてや、源三郎も幼かった頃の家康もボコボコにされたとは考えにくい。
源三郎は徳川と武田の関係が決裂したので、服部半蔵によって救出されていた。半蔵による救出劇は、史実ではないだろう。源三郎は冬の山道を駆けてきたので、両足の指を失ったが、決して武田氏を恨んでいなかった。こんなお人好しは、本当にいたのだろうか。