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本能寺の変後、明智光秀が朝廷などに献金をした当然の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀。(提供:アフロ)

 今も政治家による政治資金をめぐる問題が終息したわけではない。本能寺の変後、明智光秀が天皇や皇太子などに献金をした理由は、朝廷黒幕説に関連付けられて説明されるが、それが事実なのかを考えてみよう。

 天正10年(1582)6月2日、明智光秀は本能寺を襲撃し、織田信長を自害に追い込んだ。その後、光秀は安土城に滞在していたが、同年6月7日に朝廷は吉田兼見(この当時は兼和。以下、兼見で統一)を勅使として、光秀のもとに派遣したのである。

 勅使を務めた兼見は、光秀と親しい関係だった。光秀への用件は、京都が未だに本能寺の変で混乱しているので、鎮圧を求める内容だった(『兼見卿記』)。光秀は早々に上洛すると、正親町天皇と誠仁親王と会談した。

 同年6月9日、光秀が京都に行くと、摂関家など公家衆から出迎えられた。光秀は兼見の邸宅に入ると、天皇・親王への銀子500枚を献上した。光秀が天皇や皇太子に献金をしたのは、これから京都を支配する責任者としての意識のあらわれだろう。

 同時に光秀は、大徳寺や京都五山、そして兼見にも銀子を献上した。京都を支配するには、天皇や公家、寺社との良好な関係が必要だった。それゆえの献金である。

 天皇は、光秀をどう感じていたのだろうか。同年6月9日夜、兼見は親王に銀子500枚を携えて持参すると、兼見は皇太子からの礼状を預かって光秀に渡した。その内容は、すぐに京都の治安回復を行ってほしいというものだった(『兼見卿記』など)。

 光秀が本能寺の変で信長を討ったため、京都市中の混乱は止まなかった。信長の横死後、光秀は必然的に京都の治安維持に努めなくてはならなかった。天皇は不本意であったかもしれないが、頼りになるのは光秀だけだったのである。

 これまで光秀が天皇や皇太子などに献金したのは、天皇らの協力によって、信長を討ち果たしたお礼であるとの説があった。しかし、天皇らが光秀に信長を討つよう命じた朝廷黒幕説は、今や否定されているので、献金の意味は問い直されている。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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