非常に世間の評判を気にしていた織田信長は、どう対処したのだろうか?
政治家などの社会的な地位が高い人は、世間の評判を非常に気にしていることだろう。織田信長も非常に世間の評判を気にしていた一人であるが、どのように対処していたのか考えることにしよう。
織田信長は天下人だったので、配下の者に命令すれば、すぐに応じると思うかもしれない。たしかに、そういう面もあるのだが、いったん配下の者から信頼を失ってしまうと、いかに信長とはいえ、慎重にならざるを得なかった。
たとえば、信長は天下取りの過程において、波多野秀治、別所長治、荒木村重に離反された。信長は懐柔しようとしたが拒否されたので、彼らを叩き潰すことにしたのである。懐柔とは彼らの言い分を聞く姿勢なので、これは世間の評判(外聞)を気にしてのことだろう。
信長は、世間の評判を非常に気にしていたという。信長の発給文書に「外聞」という言葉が散見するのは、その証だろう。当時は選挙で為政者を決めるわけではないが、家臣や民衆の支持を失うと、窮地に陥ることを信長は知っていたのである。
元亀3年(1572)9月、信長は足利義昭に「異見十七ヶ条」を送り付けた。信長は義昭の政治に対する態度を鋭く批判し、義昭を赤松満祐に殺害された足利義教になぞらえたのである。さすがの義昭も、これには怒り心頭に発した。
翌年2月、義昭は信長に兵を挙げたが、敗北して逃亡したのは周知のとおりである。「異見十七ヶ条」というのは一種のプロパガンダであり、義昭の非行をあげつらうことで、自らの正当性を確保したかったのだろう。それは、世間の人々に対してのメッセージでもあった。
天正8年(1580)8月、信長は佐久間信盛に「折檻状」を突き付け、高野山に追放した。信長は大坂本願寺攻めにおける信盛の不手際を責め立て、有無を言わさず家中から追放したのである。その後、信盛は非業の死を遂げたのだ。
いかに信長が天下人とはいえ、特段の理由もないのに、家臣を追放することは憚られた。信長は信盛が織田家中から追放されても仕方がないことを世間に知らしめたうえで、追放したのである。やはり、信長は世間の評判を気にしていたようだ。
「異見十七ヶ条」も「折檻状」も原本がなく、写ししか残っていない。それらは、信長によって、あっちこっちに送られた可能性が大いにあろう。それが噂となって、人々に広まった可能性があろう。