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関ヶ原合戦前夜、大谷吉継が石田三成との厚い友情により、西軍に身を投じたのはウソ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石田三成。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では新キャストが発表され、石田三成を中村七之助さんが、大谷吉継を忍成修吾さんがそれぞれ演じることになった。今回は、三成と吉継が厚い友情で結ばれていたといわれているが、それが事実なのか考えることにしよう。

 慶長5年(1600)9月15日、石田三成は毛利輝元ら西軍の諸将とともに家康に兵を挙げたが、無残にも敗北した。敗因はさまざまな理由が考えられるが、合戦の直前に輝元や小早川秀秋らが裏切ったことも、大きな決定打になったと考えられる。

 合戦前、三成は西軍に味方する諸将を増やすべく、調略を行っていた。その際、三成との厚い友情により、西軍に身を投じたのが大谷吉継だったといわれている。以下、『落穂集』などの記述により、話の要点を示すことにしよう。

 慶長5年(1600)のある日、三成は輝元や安国寺恵瓊と天下の情勢について密談し、このままでは豊臣秀頼が劣勢となり、徳川家康の天下になるのではないかと危惧した。一方で同年6月、吉継は家康のために出陣し、7月には垂井(岐阜県垂井町)に至った。そこで、三成は吉継を自邸に招いた。

 三成が打倒家康の計画を吉継に打ち明けると、吉継は話を聞いて訝しく思った。というのも、かつて三成は人々から嫌われ、吉継が取りなしたので切腹を免れるという経緯があった。おまけに、家康は約300万石を支配する大大名であるが、三成は小さな大名でしかなかった。

 そこで、吉継は三成の申し出をいったん断ったのである。しかし、吉継にとって、三成は長年の友人だった。吉継は改めて熟考し、三成を見放し難いと思い直し、味方することにしたのである。この話は映画、テレビドラマ、小説などで必ず取り上げられる感動的な話である。

 ところが、このエピソードは二次史料に書かれたもので、にわかに信を置くことはできない。単なる長年にわたる友情だけで、吉継が三成に味方しようと思ったのかと言えば、極めて大きな疑問である。

 実のところ、家康は無断で知行を親しい大名に与えていたが、それは太閤蔵入地(豊臣家の直轄領)から割いていたといわれている。本来、太閤蔵入地は豊臣政権の中枢である五奉行が管理していた。このまま放置しておくと、家康の専横が止まらないと吉継は考えたに違いない。

 この時点で三成は五奉行を解任されていたが、残りの三奉行(前田玄以、増田長盛、長束正家)や吉継と連絡を取り合っていた。その中で吉継は、家康に対する危機意識を三成らと共有したと推測される。このままでは、彼らの豊臣政権内における地位が低下してしまうということだ。

 吉継も政権内における地位低下を恐れ、それまで家康派であったが、三成の西軍に身を投じようと考えたのだろう。三成と吉継の友情の話は、誠に麗しく感動的ではあるが、互いにそんなお人好しということはあり得ない。当時の武将は打算的で、得するか、損するかが一つの判断基準になっていたのだ。

主要参考文献

渡邊大門『関ケ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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