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【戦国こぼれ話】上杉謙信が最大のライバル武田信玄に「塩を送った」のは史実なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
武田信玄は塩留をされて苦しんだというが、史実なのだろうか。(写真:アフロ)

 今年は、武田信玄の生誕500年。信玄といえば、最大のライバルが越後の上杉謙信である。一説によると、謙信は塩留で苦しんでいた信玄に対し、塩を送ったというが、その逸話は事実なのだろうか。

■信玄と謙信をめぐる時代背景

 甲斐の戦国大名・武田信玄のライバルといえば、越後の戦国大名・上杉謙信である。2人の間に、麗しい友情話があったのがご存知だろうか?

 少し時代背景に触れておこう。信玄は謙信と戦っていたが、北条氏、今川氏といった関東、東海地域の大名とも同盟と離反を繰り返していた。

 周知のとおり、永禄3年(1560)に桶狭間合戦で今川義元が織田信長に敗れて横死すると、今川家の当主の座に着いたのが子の氏真だった。ところが、氏真が家督を継いでから、今川家の家運は傾き、存亡の危機に立たされた。

 かねて、武田、北条、今川の間では、三国同盟を締結し平和を維持していた。しかし、今川氏の弱体振りを目にした信玄は同盟を破棄し、今川氏の領国である駿河国へ侵攻を企てた。永禄10年(1567)のことである。

■今川氏による「塩留」

 信玄と関係を強化すべく結んだ同盟だっただけに、氏真の怒りは尋常ならざるものがあった。氏真は隣国の北条氏と結託し、経済制裁を行うことになった。

 これが、有名な「塩留」で、塩を甲斐へ送ることを禁じたのである。武田氏領国の甲斐は、四方を陸で囲まれて海がなかった。したがって、北条氏、今川氏から塩の輸出を断たれると、途端に危機に陥った。

 塩は食事の味付けにも必要であり、健康な生活を送るうえでも不可欠であった。塩の不足した武田氏領内では、領民が苦しんだといわれている。

■謙信が手を差し伸べたのは史実か

 ここで意外な人物が信玄に手を差し伸べた。その人物こそが、終生のライバル上杉謙信だった。謙信は「塩留」をした氏真の行為を卑怯と断じ、越後から塩を送ったのである。

 しかも、良心的に通常のレートで塩を売り渡したという。決して、敵の足元を見て、高値を吹っ掛けなかったのだ。これには、信玄をはじめ甲斐の領民も随喜の涙を流して感激した。

 謙信のありがたい支援に対して、信玄は福岡一文字の太刀「弘口」を送ったという。この太刀は、別名「塩留の太刀」と称されている。

 ところで、謙信が困った信玄に塩を送ったという話は、たしかな一次史料によって裏付けられるものではない。また、氏真が「塩留」をしたとの記録も残っていない。「塩留」のエピソードは、謙信が名君であることを後世に伝えようとしたものであろうか。現時点では、疑問視される逸話である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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