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【深掘り「どうする家康」】桶狭間の戦い後、徳川家康を襲撃しようとした松平昌久とは何者か

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
岡崎城。(写真:イメージマート)

 NHK大河ドラマ「どうする家康」では、桶狭間の戦い後の徳川家康の動きを描いていた。今回は徳川家康を襲撃しようとした松平昌久について、詳しく解説することにしたい。

 永禄3年(1560)5月19日、今川義元が桶狭間で織田信長に敗れて戦死した。家康は岡崎城(愛知県岡崎市)に入ろうとしたが、その動きを止めようとしたのが、同じ松平一族の松平昌久である。昌久が家康に猛烈なライバル心を燃やしたのには、もちろん理由がある。

 昌久の松平家は、大草松平家という。昌久の父の昌安は大草城(愛知県幸田町)主だったが、岡崎(同岡崎市)の地を支配していた。ことの発端は岡崎の支配をめぐる、家康の祖父・清康との争いだった。

 大永6年(1526)、清康は昌安に対して「岡崎は松平の創業の地で、西三河の要衝である。あなたは松平の支流なのに、その地を所有し、独立の心を持つことは謂われのないことだ」と言い、岡崎の地を譲るように迫ったという。

 ところが昌安は命に従わなかったので、清康は「攻め滅ぼす」と脅した。すると、昌安はただちに詫びて、岡崎の地を譲ったという。これには諸説あるが、大草松平家が松平本家に対抗しうることを示す逸話である。こうした遺恨が重なって、昌久は家康に対抗心をあらわにしたのだろう。

 永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、昌久は家康に従ったものの、孫の正親が不幸にも戦死したという。岡崎の一件だけでなく、御内が戦死したことも、家康に反抗的な態度を取った一因と考えられる。しかし、その前後の昌久の動静はあまりわからない。

 永禄6年(1563)、三河で一向一揆が勃発した。家康は鎮圧すべく奔走するが、昌久は一向一揆に与し、東条城(愛知県西尾市)に籠城して抵抗した。家康に敵対したのだ。

 翌年に東条城が落とされると、昌久は出奔して行方知れずになり、大草松平家は取り潰されたかのように思えた。とはいえ、大草松平家は完全に消滅したわけではない。昌久の子・康安は、のちに家康とその嫡男の信康に仕えたのである。

 いずれにしても、昌久の生涯には実に謎が多い。今後、昌久がいかに家康と絡むのか楽しみだが、次に登場するのは、三河一向一揆のときだろうか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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