【深掘り「どうする家康」】松重豊さん演じる石川数正は、松平家を代表する譜代の家臣だった
1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまった。今回は松平家を代表する家臣の石川数正について、詳しく解説することにしたい。
石川数正を演じる松重豊さんは、バイ・プレーヤーとしてドラマに欠かせない存在となった。中でもテレビ東京の「孤独のグルメ」は大人気で、私も熱烈なファンの一人である。
ところで、石川氏は松平家の譜代の重臣として知られており、その祖は河内源氏の流れを汲む源義時だったという。名字の地は、河内国石川荘(大阪府羽曳野市)で、やがて三河国へと移ったと伝わる。とはいえ、石川一族の史料は乏しく、来歴には謎が多い。
石川数正が康正の子として誕生した時期は、明確ではない。父の康正は松平家の家臣で、岡崎城(愛知県岡崎市)で政務を行っていた。ちなみに、康正も生年どころか、没年すら不詳である。
実は、石川家は二つに分かれていた。数正の祖父の清兼には、康正(数正の父)と家成の2人の子がいた。宗家となったのは、家成の系統である。家成については、改めて取り上げることにしよう。また、石川氏は一向宗を信仰していた。
天文18年(1549)に家康が今川氏の人質になると、数正は駿府に随行した家臣のなかでも随一と評価されていた。家康が幼い頃からの側近だったのだから、大いに信用していたのである。そして、ドラマのように家康に近侍して、支えていたのである。
家康と数正の運命を変えたのは、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いだった。主君である今川義元が織田信長に討たれたので、家康は晴れて自由の身になったのである。また、戦いを機にして、家康は今川氏と距離を置いた。
しかし、今川氏の本拠の駿府には、妻の築山殿をはじめ嫡男の信康が留め置かれていた。このとき今川氏真(義元の子)と交渉し、取り戻すのに成功したのが数正だった。家康にとって、頼りになる家臣だったのだ。
今後、数正の登場シーンは増えるだろう。特に、織田信長との交渉、清洲同盟の締結では大いに貢献した。その辺りは、追々取り上げることにしよう。