明智光秀と本能寺の変にまつわる、あり得ないトンデモ説3選
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、明智光秀がもてなしに失敗し、織田信長から暴力を振るわれた。光秀が謀反を起こした理由はたくさんあるが、今回はあり得ないトンデモ説を3つ挙げることにしよう。
1.光秀が信長に積年の恨みを抱いていたという説
『惟任謀叛記』には、「(光秀による信長への謀反は)急に思いついたものではなく、長年にわたる逆意であると考えられる」と記している。つまり、光秀は長年にわたって信長に何らかの逆心を持っており、急に謀反を起こしたのではなかったというのである。
『惟任謀叛記』は、羽柴(豊臣)秀吉の命によって、大村由己が執筆したものである。同書は天正10年(1582)6月に勃発した本能寺の変の直後に書かれたものとはいえ、秀吉への忖度もあったと考えられ、この箇所も個人的な感想に過ぎない。
2.光秀が天下取りの野望のため謀反を起こしたという説
『豊鑑』には、「(光秀は)なお飽き足らず日本を治めようとして、信長を討った」と記し、続けて「光秀の欲が道を踏み外して名を汚し、あさましいことだ」と述べている。つまり、光秀は自らが天下を取ろうとして、凶行に及んだということになろう。
竹中重門の手になる『豊鑑』は17世紀に成立したが、やはり全面的に信が置けるものではない。この記述内容には、当時の儒教的な価値感が色濃く反映されているだけでなく、光秀が天下取りの野望を持っていた根拠を示していない点に疑義がある。
3.光秀が天下を取るため周山に城を築いたという説
『老人雑話』には、光秀が居城の亀山城(京都府亀岡市)に続く北愛宕山に城を築き、周山と号したと記している。光秀は自身を周の武王になぞらえ、信長を殷紂に比した。これは、周武王が宿敵の殷紂を滅ぼし、天下を取った故事にちなんだものである。
そして、あるとき羽柴(豊臣)秀吉が光秀に「おぬしは周山に夜に腐心して謀反を企てていると人々が言っているが」と尋ねると、光秀は一笑して否定したという。『老人雑話』も17世紀に成立した単なる逸話集で、この話も根拠がない妄説に過ぎない。
後世に成った二次史料は、明確な根拠がないまま光秀が謀反を起こした理由を憶測した感がある。また、近世に広まった儒教感も色濃く反映されているので、光秀が天下取りの野望を持っていたなどの説は、妄説として退けるべきだろう。