「いい大学=幸せ」と考える子どもが急増中!という最大の不幸。
小学生の78%が(前回比17ポイント増)「いい大学を卒業すると幸せになれる」と考え、71%が(前回比11ポイント増)「将来、一流の会社に入り、一流の仕事につきたい」と思っていることがわかった(ベネッセ教育総合研究所調べ)。
私たちはいつの時代も、
「どうしたら幸せになれるのか?」
「どれだけおカネを稼いだら、幸せになれるのか?」
「どういう働き方をしたら、幸せになれるのか?」
といった問いを、まるで禅問答のように繰り返してきた。
だが、今回の結果ほど「不幸なモノ」はないように思う。
前述の結果は、市場経済の価値=人間の価値と言っているようなモノ。「高学歴志向」「一流企業志向」の先にあるのは「カネ」。「いい大学」、「一流の会社」、「一流の仕事」といった相対的価値の根底に存在するのは、「競争社会」でしかない。
「人よりもいい大学入って、おカネを他人よりたくさん稼げる能力がなきゃダメ。いくら稼ぐかじゃなくて、どれだけ人よりも多く稼ぐかが大切なの。そうしないと社会的地位を手に入れられないんだよ」と。
'競争に勝った人は、価値ある人。
競争に負けた人は、価値なき人。
競争に参加しなかった人も、価値なき人。
競争社会ではただ単におカネを稼ぐ能力の違いだけで、人間の価値まで選別する。競争に勝てなかったというだけで、人間的にもダメなように扱われる。件の調査結果は、この価値観が子どもに既に刷り込まれていることを意味すると言っても過言ではないのである。
当たり前の話しだが、競争社会は椅子とりゲームだ。ゲームに破れた人たちは「負け組」の烙印を押されることになる。
最大の問題は、ひとたび“失敗”(これを失敗と呼ぶことに抵抗があるが)すると、そこから二度と抜け出せないことだ。人間の深層に潜む闇が、競争社会ではいとも簡単に刃をむくのである。
人間には、自己の利益を最大限守りたいという欲求もあるため、勝ち組の枠内にいる人たちは、ひとたび負け組の集団に属することになった人が、二度と自分たちの集団に這い上がってこられないような行動を無意識に取る。競争を煽れば煽るほど、“競争に勝った人”は自分たちに有利になるように物事を進め、自分が生き残るために人を蹴落とすこともいとわなくなってしまうのである。
一方、“競争に負けた人”は「どんなに頑張ったところで勝ち目はないんでしょ? だったら頑張ったって無駄じゃん」と、稼ぐ努力も学ぶ努力も次第に失い、格差がますます広がっていくのである。
完全なる悪循環。その悪循環の世界に、7割以上の子どもたちが、「参戦します!」という意志を示した。いや、そう手をあげる子どもに、オトナたちがした。これを不幸と言わずなんという? 申し訳ないけど、私にはこの結果に、危機感を示さないオトナたちの気持ちが、ちっとも理解できない。
もし、子どもたちを否応なく待ち受けているのが「競争社会」であるなら、オトナたちが教えるべきことは、「失敗してもいいんだよ」という価値観じゃないのか。
たとえ失敗するようなことがあっても、「もうダメだ」と生きる力を無くすのではなく、負けたときにこそ気付く、「自分に本当に大切なモノ」を見つめるまなざしを、自分なりの“光”を見つける価値観を、子どもたちにオトナは教えるべきだ。それは、自分にとっての大切な光に向かっていこうとする子どもの背中を押し、つまづいたらソッと手を差し伸べるしなやかさをオトナたちが持つことでもある。
市場経済では、おカネが絶対的な価値を持つものであったとしても、人間にとっては、人それぞれに価値のあるものが存在し、その価値あるものに向かっていくことが生きる力を引き出す。
人は、自分に意味のあること、自分にとって価値のあるもののためには、いかなる過酷な状況でも乗り越えようとするし、いかなる競争に参加することもいとわないものだ。
たとえ、そこで負けることがあったとしても、自分にとって価値のあるもののために精一杯頑張った、という充足感がもたらされる。それは「幸せのタネ」に気付く、とても大切な瞬間でもある。
競争社会は今後増々厳しく、陰湿なものになっていくに違いない。だからこそ余計に、市場の価値と人の価値は同じでない、ということを、何度も何度も私たちは自分に言い聞かせねばならない。
そして、オトナたち自身も失敗を恐れずに、大いに失敗して「自分の本当に大切な価値あるもの」を見つけ、それを受け入れる社会になれば良いと心から思う。
2011年の3月11日。私たちはその「価値あるもの」を見つけるまなざしを持てたはずなのに……。5年先の私たちは、何に幸せを求めているのだろう。