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井伊直政は徳川家康とイケナイ関係にあったので、スピード出世をしたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
彦根駅前の井伊直政像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、井伊直政の美少年ぶりが話題である。一説によると、直政は徳川家康とイケナイ関係にあったので、スピード出世をしたというが、その点を検証しておこう。

 家康に仕えて以降の直政は、順風満帆だった。『井伊家伝記』によると、直政の忠勤ぶりはほかの武将より群を抜いていたので、天正6年(1578)には1万石に加増されたという。とはいえ、忠勤の具体的な中身は書かれていない。

 その2年後、なんと直政は2万石を与えられた(『井伊家伝記』)。加増された直政は、離散した旧臣たちを呼び戻し、再び召し抱えることになった。では、なぜ直政はスピード出世したのだろうか。

 直政がスピード出世した理由としては、家康と男色の関係にあったという説があった。当時、男色は珍しくなく、伊達政宗のように赤裸々な事実を物語る史料が存在することもある。

 直政と家康が男色の関係にあったならば、スピード出世の理由がすぐに理解できるのだが、その事実を裏付ける史料が不足しているようだ。織田信長も森乱丸と男色の関係にあったというが、事実無根であると指摘されている

 もう一つの理由は、家康の妻・築山殿と井伊氏との関係である。築山殿は、今川氏の家臣・関口氏純(親永とも)の娘といわれているが、実はそうではないという説もある。

 『井伊年譜』には、井伊直平(直政の曽祖父)の妹が今川義元の妻となったが、のちにその妻を義元の妹ということにして関口氏純へ嫁がせたと記す。そして、2人の間に女の子(築山殿)が生まれ、家康のもとに嫁がせたという。

 似たような話は、『井伊直平公御一代記』にも記されている。同史料によると、直平は孫娘(築山殿)を娘として、その娘を義元の姪という関係に仕立て上げて、家康のもとに嫁がせたというのだ。

 したがって、家康と井伊家は築山殿を媒介とした姻戚関係にあったということになる。直政は築山殿と血縁関係があったので、家康から寵愛されたというのだ。

 こうした話は大変ユニークではあるが、後世に仕立て上げられた嘘説の可能性が高い。根拠となる史料は決して良質とはいえないので、確かな史料的な裏付けが必要と考える。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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