【その後の「鎌倉殿の13人」】承久の乱後、怨霊となった後鳥羽上皇の数々の事件
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は最終回を迎えた。承久の乱後、後鳥羽上皇は怨霊となったといわれているが、その点について詳しく掘り下げてみよう。
承久の乱後に隠岐島に流された後鳥羽上皇は、延応元年(1239)に亡くなった。死後(あるいは生存中でも)、後鳥羽は怨霊となって、人々を恐怖のどん底に陥れたという。ここでは、その逸話をいくつか挙げておきたい。
安貞元年(1227)7月、天狗の狂乱ぶりが噂となった。歌人・藤原定家の日記『明月記』によると、その理由は隠岐で配流生活を送る後鳥羽の所業であるという。
後鳥羽の仕業という根拠は、ある法師の夢の内容に過ぎない。むろん事実とはみなし難く、後鳥羽原因とは到底考えられない。後鳥羽は隠岐で生存中であっても、その怨念は都を世上不安に陥れたということになろう。
このあとも後鳥羽の生存中に、天皇家には不安が相次いだ。天福元年(1233)9月、後堀河院の中宮で四条天皇の母・藻壁門院が25歳という若さで泣くなった。原因は、死産であったという。
翌年8月、夫の後堀河も26歳で早逝してしまった。相次いで天皇家の2人が亡くなったのは、やはり不吉なことであると都の人々は考えた。
『五代帝王物語』によると、2人のあまりに早い死に対して、都では後鳥羽の怨念が作用していたと考えたようだ。つまり、生霊ということになろう。後堀河は承久の乱後、仲恭の代わりに即位したので、余計にそう思われたのかもしれない。
後鳥羽が亡くなる2年前の嘉禎3年(1237)8月、「後鳥羽院御置文案」のなかで、「この世の妄念(誤った思いから生じる執念。妄執)にひかれて、魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすことがあるかもしれない」と述べている。
つまり、後鳥羽は自らの不遇を嘆き、妄念によって魔物となるかもしれないと述べ、それがこの世に災いをもたらすもとになると予言をしているのである。後鳥羽自身も怨霊の効果に期待していたのであろうか。この予言は、後鳥羽の死後(あるいは生前を含め)に現実のものになり、次々と都の人々を脅かすことになった。
とはいえ、怨霊というのは、人々が不吉な出来事に行った理由付けにすぎない。当時の人々は迷信を信じていたので、後鳥羽の怨霊が不吉なことをもたらすと信じていたのだ。