事情があって、徳川家康を裏切った3人の家臣。さて、その後は・・・
大河ドラマ「どうする家康」では、多くの徳川家康の家臣が登場した。そのうち、事情があって家康を裏切った3人の家臣を紹介することにしよう。
1.本多正信(1538~1616)
本多正信は永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、家康とともに出陣した。丸根砦を攻撃した際、正信は膝を大怪我し、以来、足を引きずって歩くようになったという。その後、家康は今川家から独立を勝ち取ると、正信は家臣として取り立てられた。
その3年後、三河一向一揆が勃発すると、正信は弟の正重とともに一揆方に身を投じた。結局、家康が一揆を鎮圧すると、正信は三河を去った。その後、正信は各地を放浪したが、大久保忠世が家康に仲介したこともあり、時間は掛かったが、再び家臣として復帰したのである。
2.夏目広次(1518~1573)
永禄6年(1563)に三河一向一揆が勃発すると、広次は配下の者どもとともに一揆方に味方した。しかし、一揆勢は敗北し、広次は捕らわれの身になった。その際、松平伊忠が家康に広次の助命嘆願を行い、その効果があって徳川家中に復帰したのである。
元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いで、広次は浜松城の留守を預かっていたが、味方が窮地に陥ったことを知った。広次は家康を救うため戦場に急行すると、家康の身代わりとなって戦い、無念にも戦死した。戦後、家康は広次の忠義に報いるために、墓を建てたという。
3.石川数正(1533~1593?)
石川数正は家康の股肱の臣で、その貢献ぶりは枚挙に暇がない。永禄3年(1560)の桶狭間の戦い後、駿府で人質になっていた瀬名らを救い出し、織田信長との同盟締結にも貢献した。三河一向一揆でも家康に味方し、以後の戦いでも各地を転戦している。
天正13年(1585)11月、数正は突如として豊臣秀吉のもとに走った。家康を裏切った理由は諸説あるが、数正は政治路線をめぐって家中で孤立し、出奔を余儀なくされたのだろう。数正は徳川家の重要な情報を持っていたので、家康にとって大きな痛手となった。