参議院―多様性の包摂による良識の府の再生に思いを馳せる
平成から令和に年号が変わった2019年。「猪年」の今年は、選挙イヤーとも言われ、4月は統一地方選、7月末には参議院選が行われた。選挙から月日が流れているが、参議院選関連のニュースなどが未だ続くのを見ると、メディアも国民を巻き込んで12年に1度の選挙イヤーを最後まで噛み締めようとしているようにも思える。
衆議院と参議院と2つある日本だが、193か国中79か国、サミット参加国に関しては全てが二院制と世界的にみると決して珍しくはない。
日本の参議院は、戦前の貴族院からその役目を引き継いだ。1947年の第1回参議院は、旧貴族や文化人など政党無所属議員で形成する「緑風会」が中心的な役割を果たす形で幕を開けた。この時点で、非政党的でかつ「良識の府」としての参議院を追求する議員の数は圧倒的で、議長までを無所属であるべきとこだわり抜いた。そんな参議院も、回を重ねる毎に政党化が進み、1965年の第7回参議院からは「緑風会」の姿が完全に消えた。多様性のともし火が消え、単調化に向け日本政治の歴史が動いた瞬間でもあったろう。
一人一人の議員の良心や信念にもとづく空間としての参議院の雰囲気も政党政治化によって様変わりした。与党が参議院でも力をもつと、衆議院と全く同一の意思を示し「カーボンコピー」と揶揄され、逆に野党が力をもち、衆議院と正反対の意思を示すと「決められない政治」と言われるようになった。参議院は、日本の政治は、単一化と対立化の二つに一つであると露呈させる場となった。
今の参議院は「良識の府」の美称とはかけ離れた姿になっているといえば言い過ぎになるだろうか。参議院は、時代の流れの中で、政党政治の侵食によって変化を遂げたのは仕方がないにせよ、院内の中立公正の視点に立った良識までもが、それによって反比例する動きになるならば一度立ち止まって考える必要はなかろうか。
日本としても時代に応じて進化できる好機となりえた「令和」初の国政選挙となった第25回参議院選挙も極論すれば何の変哲もない目新しさに欠けた言わばいつもの選挙となった印象は拭えない。50%を切る投票率がその証拠であるにちがいない。
むろん全くなかったわけでもない。車椅子での登院のための改修工事をしているニュース映像を見ながら、微かであろうとも日本から忘れ去られている「良識の府」としての参議院の姿に思いを馳せたのは私だけだろうか。
「良識」を辞書で引くと「偏らず適切・健全な考え方。そういう態度の見識。」と出てくる。冷静に考えれば、「人間」においても取り巻く「環境」においても「違い」と「変化」しか存在しない。そして世の中はそれらの「ちがい」が表面化する傾向が進む一方でもある。
山積みとなった日本の課題を解決しながら、持続発展可能な方向で日本を前進させるために必要な偏らない中立公正な「良識」を発揮できる万能人間はいない。形成員の多様性、つまりその空間に包摂される「ちがい」の幅と深さこそが偏重なき中立公正な良識をもたらしうるのである。
政治の場に限らず多様性の包摂に向け日本でなされている努力を評価すると同時に「性」に対する多様性の偏重が否めない。長い歴史的な努力も虚しく未だ前進しない性的多様性の包摂を急ぐと同時に、集中のし過ぎによる他の多様性を見落とさないようにしなくてはならない。
政治に対する国民の人気を取り戻し、おもしろきなき日本を面白く、夢のある国にするためにも、参議院においては、衆議院との差別化と政党色を和らげた中立公正な「良識の府」を蘇らせることが鍵となりうるのではないか。皮肉にも政党によって乗っ取られた参議院を多元的な国民の意思を反映できるよう再び甦らすためには政党の力が必要となる。
今更ながら、政党なき政治の話は現実的ではないが、その気になれば参議院において良識の府と政党政治は共存させることが出来る。それには政党と有権者のそれこそ良識が求められ、政党側には国にとっての普遍的な課題に対する認識や能力などはもちろん、合わせて多様性に裏付けされた中立公正な良識を発揮できる候補者を擁立、有権者にも多様性による豊かさをもたらす議員選びが求められる。
良識の府としての参議院が再生すれば、日本は今よりも強く、優しく、しなやかで、美しい、そして面白い国になることに今こそ思いを馳せることが必要である。