平安時代は決して「平安」ではなかった。公家が恐怖した2つの戦乱
大河ドラマ「光る君へ」は公家がメインであり、武士は今のところ後景に退いている。しかし、地方において武士の反乱が相次ぎ、公家はその対策に悩まされた。平安時代前期における代表的な戦乱として、藤原純友の乱と平将門の乱を取り上げることにしよう。
◎藤原純友の乱
承平年間(931~938)、藤原純友(?~941)は伊予掾(「掾」は「守」「介」の次の地位)として現地に赴任した。地位としては、さほど高くはない。
承平6年(936)、伊予で海賊の活動が活発になったので、朝廷の命を受けた純友は伊予守兼追捕南海道使の紀淑人とともに鎮圧にあたった。当時の純友は朝廷に従いつつも、海賊を行う微妙な立場にあったといわれている。
天慶2年(939)、純友は朝廷に反乱し、純友の挙兵を報告しようとした藤原子高を急襲した。勢いに乗る純友は、そのまま讃岐国府を襲撃し、略奪や放火を行ったのである。明らかな朝廷への挑戦だった。
朝廷は小野好古らを派遣したが、純友を討つまでには至らなかった。天慶4年(941)、純友が大宰府を放火するなどしたので、朝廷は征西大将軍として藤原忠文を派遣し、純友を討つことに成功したのである。
◎平将門の乱
平将門(?~940)は、下総を本拠とする武士である。天慶2年(939)、興世王と源経基は足立郡司武蔵武芝と争った。将門は仲裁に入ると、争いを和解に持ち込んだ。
ところが、武芝の軍が経基の営所を囲んだので、経基は将門が興世王らと謀ったと思い、上京して興世王と将門が謀反を起こしたと朝廷に訴えた。その後、将門は常陸介の藤原維幾と戦い、国府を焼き払うと国印と鎰(鍵)を奪い、これが反乱とみなされた。
将門は興世王から反乱を勧められ、関八州の制圧を目論んだ。それが成功すると、自ら「新皇」と称し、小律令国家の建設を悲願とした。こうして将門は、東国を支配したのである。
朝廷は、ただちに征東大将軍として藤原忠文を遣わした。しかし、忠文が東国に到着する前、下野押領使の藤原秀郷と平貞盛の連合軍が兵を挙げ、天慶3年(940)に将門を討つことに成功したのである。
◎まとめ
一説によると、将門と純友は互いに通じており、同時期にはかったかのように反乱を起こしたといわれているが、今は疑わしいとされている。将門と純友の反乱に公家は驚いたが、意外にも簡単に鎮圧されたので、安堵感を与えたとも指摘されている。
主要参考文献
川尻秋生『戦争の日本史4 平将門の乱』(吉川弘文館、2007年)