明智光秀ゆかりの地へ(その4) 唐橋とその周辺へ
唐橋は古来、宇治橋と山崎橋とともに「日本三古橋」や「日本三名橋」と称され、琵琶湖から唯一流れる瀬田川に架かることから交通の要所となりました。さらに「瀬田の唐橋を征するものは天下を征する」といられるほどの軍事的拠点ともなりました。古くは壬申の乱、源平合戦、楠木正成の兵乱など多くの歴史の舞台となっています。
戦国時代は織田信長によって大きく作り替えられ、本能寺の変では瀬田城主であった山岡景隆によって焼き払われ、ここを通って安土城へ進軍するつもりであった明智光秀の軍勢を足止めしたほか、近年では船戦もあったと記録に残っています。
その後、豊臣秀吉が現在の大小2つの橋を架けたと考えられ、江戸時代には歌川広重の浮世絵などでも紹介されて「瀬田の夕照」として近江八景にも謳われました。現在の橋は昭和54年に架け替えられたもので、日本の道百選にも選ばれています。
その後、唐橋を渡って東海道を直進するとすぐに建部大社が見えてきます。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祭神とする近江国の一の宮で、日本武尊の妻である布多遅比売命によって添付建され、大津京遷都の際に、大巳貴命も合わせて祀られました。
光秀が参拝した記録はありませんが、源頼朝が平家に捕らえられて伊豆に流される途中に源氏再興を祈願し、その願いが叶って以来、武運出世の神としても信仰を集めています。毎年8月17日には、日吉大社の「山王祭」、天孫神社の「大津祭」とともに、大津三大祭のひとつである水上祭「船幸祭」が瀬田川一帯で催されます。
光秀が山崎の合戦で敗れると、安土城の守備についていた明智秀満は、軍勢を坂本へ向けます。しかし、唐橋付近で羽柴秀吉の先鋒である堀秀政軍と遭遇し、衆寡敵せず敗戦して行く手を遮られることとなりました。そのあたりの詳しい戦況ははっきりしませんが、『川角太閤記』などによると秀満は、大津の打出ヶ浜から馬を琵琶湖に乗り入れて「湖水渡り」を行い、坂本城に無事に入城したと伝わります。
唐橋からその打出ヶ浜付近には、散策で訪れたい場所がいくつかあり、以下にご紹介します。京阪電車の石山本線の「唐橋前」駅から「膳所本町」駅まで移動し、膳所城跡公園に立ち寄りましょう。
膳所城はかつて「瀬田の唐橋、唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に映るは膳所の城」と里謡(さとうた)にも謡われていたように、松江城(島根県松江市)、高島城(長野県諏訪市)とともに日本三大湖城にも選ばれた名城でした。
慶長6(1601)年に徳川家康によって東海道の押さえとして、藤堂高虎の縄張りによって初めての「天下普請」によって造営され、湖の中に石垣を築き、本丸西隅に4重4階の天守が築かれたと伝わります。城主としては大津城主戸田一西を3万石で入城させここに膳所藩が成立し、以後、譜代大名の居城となりました。いくつかの変遷を経て、本多俊次が7万石で入り、13代220年の間、本多氏の居城となり明治維新を迎えています。
残念ながら明治3年には他よりも先駆けて、城の解体が行われ、本丸跡は「膳所城跡公園」として整備され、石垣をわずかに残して門が模擬再建されています。かつての城門は膳所神社(膳所本町駅からすぐ)、篠津神社、鞭崎八幡宮に現存しており、それぞれ国の重要文化財に指定されています。
膳所城前には東海道が走っており、今も当時の風情を感じながら歩くことができます。打出ヶ浜付近に建つ、大津プリンスホテルを目印にして、しばらく歩いてみましょう。途中には、膳所城に入った歴代藩主の墓がある縁心寺(えんしんじ)を過ぎると、大きなイチョウが目立つ和田神社へ到着。
本殿は鎌倉時代の重要文化財ですが、こちらにはかつて関ヶ原の戦いの後捕えられた石田三成が護送中に小休止さたとされ、イチョウに縄で繋がれたという伝承が残ります。家老屋敷の長屋門を山門にする響忍寺(こうにんじ)を過ぎると、東海道と別れて琵琶湖方面へ。最後は大津プリンスホテルでゴールとしましょう。秀満がこの付近から湖水渡りを行い、坂本城に無事入城して見事に一族の散り際を演出した、そんな当時に想いを馳せながら。
<おすすめスイーツ>
大津プリンスホテルのロビーラウンジにあるカフェでは、この時期限定で「光秀パフェ」を販売していました。大河ドラマ「麒麟がくる」に合わせての企画のようですので、販売されているかどうかは、行かれる前にご確認ください。