豊臣秀吉の命により、上杉景勝が越後から会津に移った裏事情とは
大河ドラマ「どうする家康」では、五大老の1人の上杉景勝が国許の会津に帰国する場面があった。景勝が越後から会津に移封となったのは、秀吉の晩年だったが、そこには重要な意味があったので考えることにしよう。
慶長3年(1598)1月、上杉景勝は豊臣秀吉から会津(福島県会津若松市)への移封を申し付けられた。その際、次ように命じられた(「上杉家文書」)。
今度の会津への国替えについて、その方の家中は侍は言うに及ばず、中間(ちゅうげん)・小者に至るまでの奉公人は、一人残らず召し連れること。
行かない者があれば、速やかに成敗を加えること。ただし、田畠を持ち年貢を納める検地帳に登録された百姓は、一切連れて行ってはならない。
中間・小者とは侍に従う軽輩者で、最下層の武士身分だった。彼らを会津に連れて行くことは、これまで培ってきた土地との関係を一切絶つことを意味した。
それゆえ、越後に残ると主張する者は、処罰の対象となった。逆に、百姓は土地に縛り付けて、移動を禁止した。新しく入部した大名が困ってしまうからだ。
景勝は会津への国替えにより、120万石の大名になった。景勝の旧領の越後などには、堀秀治が越前北庄(福井市)18万石から45万石に加増されたうえで移ってきた。
ところが、景勝は越後から会津へ入封するとき、すべての年貢米を運び出したと伝わる。そのため、秀治は財政が苦しくなったので、景勝を恨んだという。
景勝の会津移封に際しては、股肱の臣の直江兼続が活躍し、石田三成が協力したという。領内には支城が構築され、城主・城代が置かれるなど、着々と整備が進められた。
在京していた景勝は、越後を経て3月24日に会津に入った(「塔寺八幡宮長帳」)。こうして景勝が赴任し、本格的な会津支配がはじまったのである。
この国替えには、大きな意味があった。秀吉は奥州仕置を行なったとはいえ、伊達政宗をはじめ東北の諸大名の監視を緩めるわけにはいかなかった。
秀吉は五大老だった景勝に、その重要な役割を任せたのである。さらに、秀吉は関東を支配していた、家康への牽制を密かに期待していたのかもしれない。
秀吉の期待を受けた景勝は、洋々として会津へ入ったのである。ところが、慶長3年(1598)8月に秀吉が亡くなると、家康は景勝に再三にわたって上洛を要請したが、景勝をこれを拒否。結果、会津征討が勃発し、さらに関ヶ原合戦を引き起こす原因を作ったのである。