ノムさんの後で星野監督が優勝する理由
不思議な相関関係である。
野村克也氏と星野仙一監督の関係だ。
阪神時代、1999年からノムさんが3年指揮を取ったチームは、3年連続最下位に沈み、後を受けた星野監督が就任2年で優勝に導いた。
楽天では、ノムさんが4年間監督をした後、マーティー・ブラウン監督を間に1年挟んだが、また後を引き継いだ星野監督が就任3年目で優勝テープを切った。ノムさんはよく「種を巻き、花が咲くのに時間がかかる」と言っていた。果たして、種を巻き、土台を作ったのが、ノムさんで、花を咲かせたのが、星野監督なのだろうか。
評論家の掛布雅之さんは、ノムさんの土台作り論を支持する一人だ。
「阪神、楽天での野村さんが行なった共通点はバッテリーに野球を教え込んだこと。阪神時代には、矢野という捕手を育て、その後、ローテーの軸となっていく井川慶を育てた。楽天でも嶋というキャッチャーに配球を教え、田中を育てた。野球は、投手、バッテリーが基本。その部分の基礎を作ったのは野村さんだと思っている。野村さんの後に星野さんが来て優勝をするというのは、決して偶然ではない」
掛布さんと同じような評論をする人は、他にも何人かいる。
だが、私は、そのノムさんの土台作り論は支持できない。
ノムさんの後を受けた星野さんが、チームを勝たせてきたのは、むしろ逆で“反動の力”だと思っている。つまり星野監督は、2度とも、ノムさんの推し進めてきた野球を反面教師としてチームの空気を根本から一変させているのだ。
阪神時代、ノムさんはデータを重視したが、それを使いこなせない選手に対しての“ボヤキ”は、チームにどんよりとした暗い空気を漂わせていた。バトンを受けた星野監督は、まず大胆に選手を入れ替えた。FA補強で、金本知憲を獲得するなど、チームに新しい芯を作った。ノムさんに干されていた今岡誠も復活。チームカラーを一変させたのである。
楽天時代のノムさんは、阪神時代とは違い、最後は、ほとんどミーティングに参加せず、得意の配球術を懇切丁寧に伝授するわけでもなかった。だが、ボヤキと、「勝てば私の手柄、負ければ選手の責任」という論理だけは健在で、一部選手の反感を買っていた。例えば、マー君を「個別ミーティングするから」と呼び出したはいいが、その場にはノムさんを追ったテレビカメラが用意されているなど「勝てば私の手柄」というパフォーマンスが、あまりに過ぎて、チームの空気は、また淀んだ。
自主性を重んじたブラウン監督の1年間が間に挟まれていたが、星野監督は、楽天の監督に就任すると、やはりチームに蔓延っていた“淀んだ空気”の一掃から始めた。ただ、阪神の監督時代と、少し違ったのは、人を大胆に入れ替えるのではなく、コーチとのタッグで時間をかけて、生え抜きの若い投手、若い野手を根気強く育てようと心掛けたこと。初年度には、松井稼頭央、岩村明憲というメジャーから2人を凱旋させるという大胆な補強は行なった。だが、楽天の球団経営の体質上、中日、阪神時代のような、ドンと、お金を使った刺激的な補強はなかなかできなかった。そこでチーム作りの方向を転換。まさに3年、4年先を見据えた長期ビジョンでのチーム変革に着手したのである。
昨年のシーズンオフには、旧知の北京五輪監督時代のスコアラーだった三宅博氏に「2年かけて、なんとかピッチャーを形にした。今度はバッター。球団も、お金をかけることを約束してくれた。大物を2人取って打線に軸を作る。今年は勝負する」と本音を漏らしていた。
まさに、そのプラン通りに球団のバックアップを受け、ジョーンズ、マギーという大物2人を補強。この2人に若い左打者が刺激を受けて打線は点かた線に生まれ変わって、脈々と血が通い出した。
星野監督が名将と言われる所以は、こういうチームを強くするためのスタイルをしっかりと持っている部分にある。
中日、阪神時代には、阿吽の呼吸で、グラウンド内のことは任せておけた故・島野育夫コーチがいたが、楽天には、その島野さんがいなかった。そういう面で苦労はしたのだろうが、少しソフトに形を変えながらも、チーム作りに関する本来の星野イズムは貫き、戦闘集団を作ったのは見事である。
ノムさんが土台を作って、星野さんが“いいどこ取りをした”という論調があるならば、それは少し間違っていると思う。