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『ハッピー・エンド』は『愛、アムール』の続編ではない。愛のある終わりではなく、愛が終わっているのだ

木村浩嗣在スペイン・ジャーナリスト
“金持ち=悪人”という単純な話ではない。写真はサン・せバスティアン映画祭提供

あなたが大金持ちだとして、住み込みの使用人の子供があなたの飼い犬に噛まれてケガをしたとする。あなたは何をしますか?

イザベル・ユペール演じる女主人公は、高級チョコレートを幼い女の子にポンと渡してこう言うのだ。

「痛くなったらこれを1つずつ食べなさい」

高級チョコレート、ポンの意味

ここにあるのは残酷ではない。残酷には伴う憎悪つまり感情が、この主人公には欠如している。ちっとも女の子の健康のことなんか心配していない。心が空っぽなのと対照的にうなるほど持っているのが、お金である。

足りないものは余っているもので埋めれば良い。どうお見舞いしていいのかわからないから、いやそもそも申し訳ないなんて思ってないから、金を渡しときゃいいや、となる。高級品であれば貧乏人は黙るだろう、と。

財布の痛みを心の痛みに換算し、誠意は金額で決まる、と考えた結果の高級チョコレート。たぶん女主人公の中では、飼い犬の方が使用人の娘よりも序列が上である。もっとも、そのランク付けは愛の深浅によるものではなく、物質的なもの。可愛がられていないアクセサリーとしての犬が、人を噛んでしまうのも無理がない。

驚くべきことに、この女主人公には息子がいるのである。愛情の注ぎ方がわからない、いやそもそも情というものが極めて薄い親に育てられた子供がどうなるか? それは映画を見ればよくわかる。

ユペール名演の「どこか変な人」

こういう何気ない1シーンで、作品全体のテーマと主人公の人間性を描写し切るのは、さすがにミヒャエル・ハネケ監督であり、監督のお気に入り女優イザベル・ユペールの演技も素晴らしい。「変人」を演じるよりも、「どこか変な人」を演じる方がずっと難しい。一家のリーダーでできる女なのだが「何かおかしいな?」という序盤の疑問への答えは、クライマックスにちゃんと用意されている。

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この作品を前作『愛、アムール』の続編と見る向きもあるようだ。確かにジャン・ルイ・トランティニャン演じる役名ジョルジュは前作と同じだし、「妻を殺した」と告白するシーンもある。妻を亡くしたジョルジュが虚無に陥ったと解釈すれば、前作と今作は彼の役の上では繋がるのかもしれない。

しかし、前作で描かれたのは「愛の形」で、この作品では「愛の不在」。一緒にすれば前作のファンは怒るだろうし、続編を期待すると裏切られるだろう。

移民を出して濁ったハネケらしさ

ソーシャルネットなどのコミュニケーションツールが、“浮気促進ツール”として関係破壊に貢献していることや、テクノロジーを介した間接的なコミュニケーションの中で育った子供の情緒が、おかしなことになることへの危機感も描かれている。

ただし、こうした現代社会への目配りが利き過ぎたせいか、移民を登場させたことで“金持ち=悪人、貧乏人=善人”という余計な道徳が加わってしまった。

フランスの伝統的なブルジョワジーも駄目で、新しい世代も駄目。「幸せな終わり」ではなく「幸せの終わり」である――という突き放した目線が、変に社会正義で濁ってしまったのは惜しい。

在スペイン・ジャーナリスト

編集者、コピーライターを経て94年からスペインへ。98年、99年と同国サッカー連盟のコーチライセンスを取得し少年チームを指導。2006年に帰国し『footballista フットボリスタ』編集長に就任。08年からスペイン・セビージャに拠点を移し特派員兼編集長に。15年7月編集長を辞しスペインサッカーを追いつつ、セビージャ市王者となった少年チームを率いる。サラマンカ大学映像コミュニケーション学部に聴講生として5年間在籍。趣味は映画(スペイン映画数百本鑑賞済み)、踊り(セビジャーナス)、おしゃべり、料理を通して人と深くつき合うこと。スペインのシッチェス映画祭とサン・セバスティアン映画祭を毎年取材

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