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川中島の戦い。白頭巾を被る上杉謙信を描いた「川中島合戦図屏風」とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
上杉謙信公像。(写真:イメージマート)

 最近の報道によると、上杉謙信が被っていた白頭巾(米沢市・上杉神社所蔵)が修復されることになった。こちら

 この白頭巾は国の重要文化財で、劣化が進行しているという。しかし、全面的な修復は困難なので、表面を修復し、6年後の「上杉謙信生誕500年」の際に公開する計画である。

 今回は、白頭巾を被る上杉謙信を描いた「川中島合戦図屏風」について考えてみたい。以下、謙信はたびたび改名するが、よく知られた謙信で統一する。

 上杉謙信は長尾為景の子であるが、兄がいたこともあり、家督を継ぐ可能性は低かった。そこで、謙信は林泉寺に入り、天室光育のもとで研鑽を積んでいたのである。

 その後、謙信は元服すると、のちに兄の晴景に代わって、家督を継承した。謙信のライバルとして知られるのが、甲斐の武田信玄である。

 川中島の戦いとは、謙信と信玄が信濃国更級郡の千曲川と犀川の合流地点である川中島において、天文22年(1553)から永禄7年(1564)に5回にわたり戦った合戦のことである(戦った回数は諸説あり)。非常に有名な合戦であり、多くのエピソードが残っている。

 謙信は自ら川中島に出陣しており、その模様を描いたが「川中島合戦図屏風」である。柏原美術館(山口県岩国市)が所蔵する「川中島合戦図屏風」は、白い頭巾を被った謙信が信玄に斬りかかる模様が描かれている。この作品は、軍学書の『甲陽軍鑑』の記述を参考にして書かれたものである。

 和歌山県立博物館にも、「川中島合戦図屏風」が所蔵されており、同じく白頭巾をかぶった謙信と信玄の一騎打ちの模様が描かれている。こちらの作品は、越後流軍学者の宇佐美定行が執筆した『北越軍記』をもとにして、狩野派で学んだ絵師が描いたと考えられている。成立は、17世紀後半頃であるといわれている。

 こうした合戦図屏風は一般的に言えば、絵師が実際の合戦を見て、その場で描いたものではない。その多くは後世に成った軍記物語などを頼りにし、合戦に出陣した人が存命であれば、取材して描いたものである。つまり、写真のように、完全に事実を切り取ったものとは言い難い。

 今では、謙信と信玄が一騎打ちで勝負したというのは、疑問視されている。大将同士が一騎打ちするなどは、あまりに現実離れしているからだ。しかし、謙信が白頭巾を被っていたというのは、伝来の過程からしてたしかなものである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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