朝ドラ「ブギウギ」モデルの笠置シヅ子と淡谷のり子の交差と相違。恋のありようが朝向きかを決めた?
NHK朝の「連続テレビ小説」(通称「朝ドラ」)で現在放映中の「ブギウギ」にさまざまな反響が寄せられています。平均世帯視聴率15%後半は過去作と比して驚くほどでないにせよ、今年からは上昇しそう。何しろ「必殺」ともいえる「東京ブギウギ」がまだ残っているから。
周知のように趣里演じる主人公・福来スズ子のモデルは笠置シヅ子。今回は同時代人でドラマ内で「ライバル」と位置づけられている茨田りつ子(演・菊地凛子)のモデルである淡谷のり子の生涯を中心に探ってみます。
なおフィクションとはいえ、笠置の生涯、とくに年初から始まる場面はネタバレに類するので最小限に止めていく方針です。(文中敬称略)。
実際の初対面は「別れのブルース」発表前
ドラマで淡谷(茨田)が初登場した回で既に「別れのブルース」は大ヒットしていて初対面の笠置(福来)が「大好きです」と賞賛したのに対し、淡谷が「お芋さんみたいなお顔」と返していました。実際は少々異なるようです。
1937年、「別れのブルース」を作詞した藤浦洸・作曲の服部良一ともに、まだヒット曲を生み出していません。同年に淡谷が大阪・道頓堀の松竹劇場へ出演した際にバックで踊ったコーラスガールが松竹少女歌劇団の出身者で、そこに笠置もいたため、出会ったとしたらここでしょう。レコーディングはその後なのです。
なお「お芋さん」は当時の笠置の愛称「マメちゃん」に由来しそう。淡谷による例えではありません。
本当にあった「私の戦闘服」発言
しかも発売後しばらく売れませんでした。同年は日中戦争が勃発して軍歌の全盛期を迎えようとしていたのも影響したのでしょう。発火点は満州(中国東北部)の前線兵士の支持。それが内地へ逆輸入される形で大ヒットしました。
朝ドラ9週目の「贅沢は敵だ」は戦時総動員体制での標語。淡谷が婦人(国防婦人会か愛国婦人会)に迫られた場面は本当にあったようです。東京・銀座の資生堂から出たところで「私の戦闘服なのよ。贅沢ではありません」と言い放ちました。
実はその翌日、憲兵隊(軍内の警察)本部から呼び出され注意されても「女の服装をとやかくおっしゃるより、戦争に勝って下さい。大本営は女性の服装について議論なさってから作戦もお決めになるのですか」と一歩も譲らないのです。
笠置が付けまつげを警察にとがめられたのも同年とみられます。
絶対に軍歌を歌わない
ドラマ内で福来が汽車のなかで少女へ童謡を歌う場面の前段も淡谷のセリフが援用されているような。場所は宴席と異なるものの「私はプロです。吹き込みとステージでしか歌わない」と拒否した逸話が残っているのです。
40年、「別れのブルース」など発禁。歌ってもいけないと通達されます。レコーディングは翌41年の「すずかけの道」を最後に新曲を出せなくなる状態へ。絶対に軍歌を歌わない姿勢を譲らなかったから。中立国であるアルゼンチンタンゴを歌いまくったのも同時期。
ただ淡谷が反戦思想であったかというとそうでもない。といって戦争賛美でもありません。彼女の生涯を貫くのは「歌いたい作品だけ存分に歌う」のみ。恩師の久保田稲子から贈られた「あなたは歌とともに死んでいく」という言葉を大切にし「ステージで死にたい」と公言。自叙伝のタイトル通り「歌わない日はなかった」日々を送るのです。
慰問で声を嗄らしプロパガンダ放送で存分に奏でる
だから、イチャモンがつくならと満州(外地)で日本軍を慰問しようと満ソ国境まで巡りました。兵は発禁を食らう「別れのブルース」「雨のブルース」に涙し、士官も黙認したばかりか兵の喜びように目をうるませるほど。帰国後も日本各地の軍需工場の慰安会を回って声を嗄らすまで毎日歌い続けたのです。
43年からは「ゼロ・アワー」という連合国軍向けプロパガンダ放送へ出演して敵の戦意をくじくという名の下に存分に持ち歌や洋楽を奏でました。大戦末期の東北地方の慰問ではマイクなしのろうそく灯りという環境で皮肉にも本来のクラシックでは当たり前の地声でのステージをこなすのです。
玉音放送で泣かなかった意味
年末放映の予告映像から察するに年初に特攻隊を前に歌うシーンがきそうなので詳細は避けて背景説明に止めます。
45年の沖縄戦は現地を守備する日本軍へ制空権を握った米海軍が容赦なく砲撃。壊滅状態の帝国海軍は、まだ10代の海軍兵学校予備学生・生徒まで駆り出して体当たり攻撃を命じました。飛び立つ先の九州の基地で淡谷が歌う場面がおそらく再現されるのでは。
それからわずか3~4ヶ月しか経っていない敗戦後は一転して進駐軍相手に無理やり歌わされたところ拍手喝采とまさに有為転変。
生前の淡谷は昭和天皇の玉音放送(終戦の詔書)でも泣かないでうれしかったと何度も回顧しています。「ゼロ・アワー」を聞いていた敵兵も、特攻隊の少年ももう死ななくて済むという意味がこもっていたのでしょう。
交差する人生路と榎本健一
淡谷、笠置、服部の共通項は軍歌嫌いです。もっともその理由は違っていて淡谷が音楽性を認めないのと「軍歌で戦争に勝てれば世話はない」と解釈していたに対して、服部は苦手。笠置はほぼ服部作品しか歌わないから必然的にそうなります。数少ない1曲が朝ドラが取り上げた「大空の弟」です。
横文字を避けて「淡谷のり子とその楽団」を結成したのに笠置が続いたのも再現されました。
他の淡谷と笠置には共通点といえば「甲斐性なしの父親」「父親のいない娘を育てた」人生路。淡谷は子の父を明かしていませんが、おそらく会社員で中国大陸にて戦死している人物です。その点で最愛の弟が戦死した笠置と交差するのです。
笠置の喜劇俳優としての師匠になる榎本健一と淡谷も若い頃に出会っていたかも。30年、淡谷は東京有数の繁華街「浅草六区」にあった映画館「電気館」で専属歌手となってアトラクションの一枚看板で歌っていました。同時期に榎本も六区で軽劇団に所属していたのです。
美空ひばりと物真似
次代のスターとなる美空ひばりを嫌ったのも同じ。ただ淡谷が後々まで公言しているに対して笠置は公にそうといってません。「ベビー笠置」と物真似ではやされた少女の頃の美空をこしゃくに感じてはいたようです。2人に共通するのは「歌手は持ち歌で勝負せよ」。散々こき下ろした淡谷も美空が大ヒットを連発した後に続出した「美空ひばりの真似」にも苦言を呈しています。
さらにいえば後年「ものまね王座決定戦」審査員として名を馳せてもいるから面白い。「本物の物真似」は認めていたわけです。
大きな相違点は「恋」
逆に大きな相違は「恋」。「ブギウギ」で既出の通り笠置は生涯、1人の男性のみを愛したのに対して淡谷はあえて古めかしく表現すると「恋多き女」。
近年の朝ドラは今回の笠置とほぼ同時代の芸能関係者が「これでもか」と主人公になっています。吉本せい(1889年生)の「わろてんか」(2017年)、古関裕而(1909年生)の「エール」(2020年)、浪花千栄子(1907年生)の「おちょやん」(2020年)、そして笠置(1914年生)。笠置や淡谷の先駆者たる佐藤千夜子(1897年)も1977年の「いちばん星」の主人公。
戦前から戦後にかけてのキャリアを勘案したら淡谷主人公作品が企図されておかしくないのですが、何せ彼女の「恋」部分を盛り込むと「朝」は厳しい。といってそこを除いたらつまらないし。
「生涯ブギを歌う」vs「ブギは必ずすたれる」
一生(80代後半ぐらいまで)を「歌わない日はなかった」淡谷に対して笠置が1957年を境に俳優へ専念したのも大きく異なります。
49年『婦人公論』11月号で「荊の道を語る/淡谷のり子、笠置シヅ子」と題された対談が掲載された際、終了後の雑談で笠置が「生涯ブギを歌い続ける」と発言。淡谷が「ブギは一時的で必ずすたれる」と言い返すと笠置も「私が歌う限り流行し続ける」と啖呵を切っています。この思い自体は本物のようで52年の「東京新聞」でも「ブギは絶対に残る」と反論しているのです。
対談から約10年後、2人が再開した際の逸話が残っています。淡谷が「どうしたのよ。一生ブギを歌うといったじゃない」と聞いたら「あんなもん歌えまっか。心臓が破れそうですわ。ああ言ったんは若気の至りでんがな」とサッパリ認めたとか。
どうやら淡谷も残念だったようで後年、「笠置さんが先に降りちゃって……」と述懐しています。
80代の歌に涙ぐんだ20代
背景には淡谷が東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)で声楽を叩き込まれた生粋のクラシック出身である一方で笠置が歌劇団出身という違いがありそう。歌手全盛期でさえ俳優としても活動していた笠置にとってどちらも大切であったのでしょう。
淡谷は1980年から東京・渋谷の小劇場「ジァン・ジァン」の定期コンサートを80代まで開きます(93年まで)。客席200席未満の小さなハコ。でも訪れた20代ぐらいの女性が涙ぐんでいる姿を見て筆者も驚いた記憶があります。
淡谷にしてみれば戦中戦後、いかにへんぴな地の掛小屋でも、そこに舞台があればためらいなく向かった時と何も変わらなかったのではないでしょうか。どんなに少なくても自分の歌に泣いてくれる人がいたら歌うという淡谷晩年の真骨頂といえます。
※参考文献
小堺昭三著『流行歌手』(角川文庫)
淡谷のり子著『歌わない日はなかった』(婦人画報社)