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【光る君へ】藤原兼家の強みは、娘の詮子が懐仁親王を産んだことだったが、新たなライバルも出現した

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所 紫宸殿。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」は紫式部が主人公であるが、もう一つの見どころは政界における公家の暗闘である。藤原兼家は摂政・関白の座を狙い、策を弄しているが、これがなかなかうまくいかない。

 しかし、兼家は娘の詮子が懐仁親王を産んだので、有利なのは間違いなかった。その点を検討することにしよう。

 兼家は師輔の三男として誕生したが、伊尹、兼通という二人の兄がいた。伊尹は右大臣を務め、円融天皇が即位すると、摂政を務めた。亡くなったのは、天禄3年(972)のことである。

 問題は、誰が後継者になるかだった。弟の兼通と兼家が有力候補だったが、官職では兼家が上だった。二人は、どちらが後継者となるかで口論するほどだったという。まさしく、その関係は険悪だった。

 普通に考えると、兼家が後釜になるはずだったが、兼通は円融天皇に猛烈な運動を展開し、やがて内覧の地位を得た。その後、兼通は権中納言から内大臣に大出世し、天延2年(974)に念願の関白に就任したのである。

 同時に、正二位・太政大臣に叙位任官された。これには兼家も驚き、嘆き悲しんだに違いない。以降も二人の仲は険悪で、兼通はそのような事情もあったので、兼家の昇進を妨げたのである。

 貞元2年(977)、兼通の病気が重篤になると、兼家は兄の見舞いにも行かず、朝廷に出向いて「後継者は私を」と売り込む始末だった。その事実を知った兼通は怒り狂い、後継者に兼家ではなく、藤原頼忠を指名した。

 最後の力を振り絞って後継者の指名をした兼通は、しばらくして病没した。兼家は後継者どころか、降格の憂き目に遭ったが、哀れんだ頼忠は右大臣に昇進させた。

 このように運に恵まれなかった兼家だったが、唯一の強みは娘の詮子が円融天皇の後宮に入り、懐仁親王(のちの一条天皇)を産んだことだった。将来、懐仁親王が天皇になれば、兼家は摂政に就任し、外祖父として権力の座を射止める可能性が大いにあるからだ。

 永観2年(984)8月、円融天皇が譲位して、花山天皇が新しい天皇として即位した。そのとき、東宮となったのが懐仁親王である。花山天皇が即位しても、引き続き頼忠が関白を務めた。しかし、二人は外戚の関係にはなかった。花山天皇には、おじとして藤原義懐(伊尹の子)がいた。

 当時、義懐は権中納言に過ぎなかったが、外戚関係を前面に押し出し、政界で高い地位を得ようという野心を持っていた。兼家にとって、新たなライバルの出現である。義懐の存在は、これから摂政・関白を狙う兼家にとって、非常に厄介な存在だった。

 しかし、花山天皇は奇行で知られていたので、やがて立場がまずくなり、このことが兼家に幸運をもたらしたのである。花山天皇が一条天皇に譲位する事情については、改めて取り上げることにしよう。

主要参考文献

倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』(KADOKAWA、2023年)

大津透『日本の歴史06 道長と宮廷社会』(講談社学術文庫、2009年)

朧谷寿『藤原氏千年』(講談社現代新書、1996年)

倉本一宏『藤原氏 権力中枢の一族』(中公新書、2017年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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