酒好きで名を馳せた、伊達政宗の酒癖の悪さを示すエピソードとは
かつては酒の席の不祥事は水に流されることがあったが、今は許されることはない。伊達政宗は酒癖が悪く、酒好きで名を馳せたので、そのエピソードを紹介することにしよう。
伊達政宗は、こよなく酒を愛したことで知られている。政宗は多くの漢詩を残しているが、その多くは酒を詠んだものである。和歌も少し残しているが、やはり酒を詠んだものがある。政宗がいかに酒好きだったかを示していよう。
政宗がいかに酒好きだったかは、次女の牟宇姫に宛てた書状からもうかがえる。政宗は宴席で場を盛り上げようとし、大量に酒を飲んだため、朝から二日酔いで具合が悪いと記している。ほかにも二日酔いでダウンしたことを知らせる書状がある。
政宗は酒を飲み過ぎて、暴力を振るったこともあった。宴席でしたたかに酔った政宗は、小姓頭だった蟻坂仲久の頭を脇差の鞘で殴ったのである。その後、政宗は謝罪したので、次に概要を示すことにしよう。
政宗は仲久の言い訳が気に入らず、頭を脇差の鞘で殴ってしまった。いかに仲久が若輩者とはいえ、小姓頭を命じたくらいなのだから、自分(政宗)の過ちを詫びた。そのうえで政宗は、仲久の頭の傷が治ったら、出仕してほしいと述べたのである。
政宗の酒好きは、諸大名の間でも知られていた。細川忠興と忠利は書簡を交わしていたが、その中で政宗が酒に酔って連日のように踊り狂っていること、忠宗(政宗の子)の助言により、下屋敷に逼塞していたことが噂になっていたという。
政宗の飲み友達としては、藤堂高虎が有名である。江戸に滞在しているときは、互いに誘い合って酒を酌み交わしたという。ときに政宗は、高虎に酒を贈ることがあった。肴になる鳥一羽のおまけつきである。政宗は高虎から酒を贈られていたので、そのお礼であろう。
政宗が鷹狩りの供をした家臣への掟書がある。この掟書は非常にユニークなもので、2条目には朝食の際の酒は小盃で2杯までとするが、状況によっては5杯まで飲むことを許した。
3条目は、夜の飲酒は飲み放題とするが、大酒は禁止すると定めた。飲み放題と大酒は矛盾するのだから、何ともユニークな条文である。政宗がいかに酒好きだったかがわかる。
主要参考文献
佐藤憲一『素顔の伊達政宗』(洋泉社歴史新書y、2012年)