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あまりの恐怖に戦慄を覚えた、織田信長が行った無慈悲な大量虐殺3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:イメージマート)

 今も悲しいことに、大量虐殺が行われているが、あってはならないことである。ところで、天下人になった織田信長もまた、大量虐殺を行っていた。そのうち3つを取り上げることにしよう。

◎長島一向一揆

 信長は大坂本願寺と抗争を繰り広げていたが、元亀元年(1570)に長島(三重県桑名市)でも願証寺を中心にして一向一揆が蜂起した。

 一揆勢は信長の弟・信興が籠る小木江城を攻撃し、信興を死に追いやった。以降、信長と長島一向一揆は、何度も死闘を繰り広げたのである。

 天正2年(1574)、信長は大軍勢で長島一向一揆に総攻撃を敢行し勝利した。しかも、門徒約20000人を虐殺したという。これにより、伊勢に加えて、美濃、尾張の一向宗は鎮圧されたのである。

◎越前一向一揆

 天正元年(1573)、信長は朝倉氏を滅ぼし、越前を支配することになった。配下の桂田長俊(前波吉継)が支配を任されたが、翌年に富田長繁が一向一揆の勢力とともに挙兵し、長俊を殺害した。しかし、その長繁も一向一揆の勢力と戦って敗れ、討ち死にしたのである。

 天正3年(1575)、信長は越前に大軍を送り込んで、越前一向一揆を討滅したのである。その結果、約2000もの一揆勢が討ち取られ、捕らえられた12000もの捕虜も殺害されたのである。

◎天正伊賀の乱

 伊賀国は惣国一揆の支配する国で、信長の子・信雄も攻めあぐんでいた。天正9年(1581)、信長の命を受けた信雄は、約50000の兵を率いて伊賀に攻め込んだ。伊賀の国人も防戦に努めたが、ついに敗れ去ったのである。

 その結果、僧侶だけでも約700人が殺害され、伊賀国内では約30000人が虐殺されたという。当時、伊賀国の人口は約90000といわれていたので、約3分の1の人々が殺されたことになる。

◎まとめ

 信長は勧告に応じて、早く降参すれば、許すこともあった。しかし、徹底して抗戦する姿勢を見せると、徹底した殺戮戦を展開したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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