吐血地獄からの生還―5
「戦争に勝ったのはどっちだ。もう一度日本に原爆を落としてアメリカの力を見せつけろ」と、1992年の米連邦議会では議員たちから怒りの声が相次いだ。
宮沢総理が日本の通常国会で「最近のアメリカには働く倫理感が欠けているのではないか」と発言、それを日本の新聞が「アメリカの労働者は怠け者」という見出しで記事にし、米国メディアが一斉にトップの扱いで報道したからである。
宮沢総理の発言は「我が国のバブルにもそういう要素があるが」と断ったうえで、モノづくりよりマネーゲームに浮かれる世相を批判したものだが、日本経済の脅威を感じていた米国の政治家にとっては「癇にさわる」発言で攻撃の材料になった。
総理官邸はこの事態を深刻に受け止め対応に苦慮していた。私はC―SPAN視察に同行した近藤元次議員が官房副長官に就任した直後だったので、「宮沢総理は怠け者とは言っていない。国会発言をそのままC―SPANで放送すれば、事態は沈静化するのではないか」と近藤副長官に進言した。
視聴率を気にするテレビ局は放送してくれないが、C―SPANなら必ず放送し、米国の政治家に伝わるはずだ。副長官からは「真剣に検討する」と返事があった。しかしそれを聞いたNHKが「対外的に日本を代表するテレビ局は自分たちだ」と主張し、C―SPANを使うことに反対したと言われた。
そこで私は伊藤忠商事と交渉して同社のスタジオを借り、加藤紘一官房長官と松永信雄元駐米大使をゲストに、C―SPANと衛星回線をつないで視聴者を巻き込む双方向の討論番組を企画した。民間の手で宮沢総理の発言をそのまま米国で放送しようと考えたのである。
それが可能となったのは、世界のどの国もやっていないBS放送を先行させた日本の郵政省が、BS加入者が1千万世帯を超えたところで、ようやくCS衛星放送とケーブルテレビという「多チャンネル放送」の導入を認めたからだ。
CS衛星放送に手を挙げたのは大手商社で、中でも伊藤忠商事の衛星担当者は「田中さんのおかげでC―SPANの配給権が三菱商事の手に渡らなかった」と言って接近してきた。私は商社の競争に加担する気はなかったが、C―SPANの放送哲学を広めることができるなら誰とでも手を組もうと考えていた。
こうして伊藤忠商事のスタジオとワシントンのC―SPANのスタジオを衛星で結び、日本と米国の政治家同士の討論を、米国の1000局と日本の80局のケーブルテレビ局に生中継し、視聴者から電話で質問を受ける番組を放送した。同時通訳付きだから言葉の問題はない。その中で宮沢総理の国会発言をそのまま放送した。
加藤長官は米国の素晴らしさを褒めながら、総理発言の真意を必死に弁明した。ところが興味深かったのは米国の視聴者たちの反応である。異口同音に「どうせ政治家とマスコミの言うことなんか信用していないから安心して」と言われた。
その半年前、まだ日本に「多チャンネル放送」がなかった頃、フジテレビとC―SPANを結んで真珠湾攻撃50周年の日に日米双方向の衛星討論番組を制作した。その時も米国メディアが真珠湾攻撃を「騙し討ち」と反日キャンペーンしていたのに、米国の視聴者は冷静で、中には「広島、長崎、ごめんなさい」と言う人もいた。
私は米国以外にも東南アジア、アフリカ、中東、欧州などで取材の経験があるが、考えてみれば政治家やメディアを信用しているという人にお目にかかったことがない。それに比べ日本人は政治家の発言を受け入れ、新聞やテレビの報道を鵜呑みにする傾向がある。
「世界価値観調査」という報告書が5年ごとに発行される。世界50カ国ほどの国民の価値観を学者たちが調べた結果である。それによると日本国民は「新聞とテレビから毎日情報を得る」比率が世界一で、新聞を「信じる」から「信じない」を引いた割合もダントツのプラスで世界一、欧米の国民が「信じない」の方が多いのと真逆である。
因みに日本と同じ「信じる」国民が多いのは中国と韓国だ。中国は全体主義国家だから理解できるが、民主主義を標榜する日本と韓国の国民がメディアに対する価値観で欧米の国民と真逆なのはなぜか。日本と韓国の何が共通しているかを考えると興味深い。
一方でこの調査によれば、各国の国民が最も信頼できると考えている組織はどの国でも「軍隊」である。そして「政府」や「議会」は信頼できない組織の筆頭だ。その点では日本も信頼できる1位が「裁判所」、2位が「自衛隊」で、日本人は軍隊を持たない憲法を持ちながら事実上の「軍隊」を他国並みに信頼している。「政府」と「国会」は当然ながら信頼できない組織の筆頭である。
92年の夏、衆議院事務局から私に「国会テレビ」の事業計画案を作成して欲しいと依頼があった。私は公益法人を事業主体とし「寄付で成り立つテレビ」を提案した。米国の公共放送(PBS)は、連邦政府、地方政府、企業、個人からの寄付で成り立っている。それを参考にしたのである。
PBSの番組は日本でも子供向けの「セサミ・ストリート」が放送されて人気だが、教育目的の番組を数多く制作している。それを支えているのが寄付で、企業もコマーシャルを流す商品宣伝ではなく社会貢献の一環としてスポンサーになる。私が書いた「公益法人案」は93年の通常国会で決定される段取りだと衆議院事務局から言われた。
ところが93年通常国会はそれどころではなくなった。まず3月に自民党最大派閥の会長だった金丸信が脱税容疑で逮捕された。前に書いたように金丸は政権交代を実現することに力を入れた政治家である。そのため自民党単独政権を維持しようとする竹下登や中曽根康弘と対立した。
金丸が考えたのは戦前の「政友会」と「民政党」に近い2大政党制である。自民党を旧田中派とそれ以外に分け、旧田中派と社会党右派を合流させて「政友会」と似た分配重視・積極財政の政党を作り、それ以外の自民党を成長重視・緊縮財政の「民政党」のような政党にする。
現役の政治記者だった頃、私は金丸と田辺誠社会党委員長と平岩外四経団連会長の3人が、自民党に対抗する新党づくりのため秘密会談を行ったことを掴んでいた。だから検察の金丸逮捕は新党づくりを潰す目的かと最初に思った。
検察は当初、佐川急便から5億円の闇献金を受け取ったとする政治資金規正法違反で金丸を立件し、メディアに金丸個人の政治資金であることを大々的に報道させた。ところが調べていくと献金はすべて派閥の所属議員に配られていた。検察は上申書を提出させ20万円の罰金刑で処理することにする。
ところがメディアの闇献金報道を鵜呑みにした国民は検察の軽すぎる処罰に怒った。検察庁玄関の表札にペンキが投げつけられる騒ぎになった。窮地に陥った検察を救ったのは、死亡した金丸夫人の遺産相続を調べていた国税庁である。金の延べ棒や銀行の金融債を隠し持っていると検察に情報提供し、検察は金丸を脱税容疑で逮捕し面目を保った。
金丸は「自社馴れ合い政治」の真っただ中にいた政治家である。国会のどの場面で野党が審議拒否をし、どこで審議に復帰するか、そのシナリオを野党と練り、裏側で法案の成立を取り引きする。金丸は長年の「与野党馴れ合い」の渦中にいたからこそ、それが続かないことを知っていた。だから私の主張する「国会テレビ」構想にも賛成だった。
金丸が保釈され自宅に戻った日に私は金丸を訪ねた。すると真っ先に聞かれたのが「おい、金の延べ棒って何だ」である。検察は金丸家の床下から金の延べ棒が出てきたと発表していたが、本人は金の延べ棒を知らないと言う。
また検察は金丸事務所の金庫を押収するシーンをメディアに撮影させ、中に現金30億円が入っていたと報道させたが、金丸は「宮沢事務所の金庫にも、中曽根事務所の金庫にもそれぐらいの金は入っている。なんで俺の金庫だけ問題にされるんだ」と憤慨していた。
当時は政治献金が政党でも政治家個人でもなく派閥のボスに集まる仕組みだった。派閥のボスは集まった金を派閥のメンバーの選挙資金や飲み食いの費用に充てる。派閥のボスの事務所には派閥メンバーが飲み食いした請求書がすべて送られてくる。その面倒を見るのが派閥のボスの役割だった。
亡くなった金丸夫人は貸しビルを所有する実業家だったので、金の延べ棒だけでなく金丸の知らない金の動きもあったと思う。それで逮捕されたから金丸は納得できない。裁判では無罪を主張した。裁判の途中で本人が死んだため容疑が晴れることはなかったが、金丸事件は奇妙な事件だった。
司法記者として東京地検を18年間取材した産経新聞の宮本雅史は、金丸逮捕に疑問を持ち、検察OBを訪ね歩いて調べた結果、金丸事件だけでなく田中角栄を逮捕して日本中を驚かせたロッキード事件も、法務大臣が指揮権を発動して佐藤栄作が逮捕を免れた造船疑獄事件も、まともな捜査が行われていなかったことを知る。
それを宮本は『歪んだ正義』(情報センター出版局)という本に書いたが、宮本が知り得た情報が新聞やテレビに反映されることはない。新聞とテレビは常に検察の意向通りに動く権力の先兵の役割を務めている。
そもそも問題にすべきは、政党も派閥も日本では法的な定義がなされていないことである。外国ではありえない話だが、日本には政党を定義し規制する政党法がなく、まして派閥の法的定義もない。それでも国民は日本を民主主義だと思っている。政党法を作る動きはあったが「結社の自由」を理由に常に野党に潰されてきた。金丸事件はそうした中で起きた。
一方の国会では政権交代を可能にする小選挙区制の導入を巡り、単純小選挙区制を志向する自民党の考えと、比例代表を加味して比例に重点を置く社会党と公明党の考えが対立し、紛糾していた。
宮沢総理は「今国会中に政治改革法案を成立させる」と大見得を切ったが、ついに法案の提出に至らず、6月に野党が内閣不信任案を提出すると、自民党の小沢一郎や羽田孜らが賛成して内閣不信任案は可決された。
自民党は分裂し、小沢や羽田は新生党を結成、また不信任案には反対したが武村正義、鳩山由紀夫らが新党さきがけを作って自民党を離党した。この時、私の「国会テレビ」構想に最も強く賛成し、C―SPANを視察した吹田あきら(りっしんべんに日と光)、田名部匡省の両議員は安倍派所属であったが、小沢一郎と行動を共にして自民党を離党した。
不信任案可決を受けて宮沢総理は衆議院を解散、7月18日に行われた総選挙で自民党は離党した議員の分だけ議席を減らし、単独過半数を失った。しかしそれでも第一党の座は確保し、どこかの政党と連立を組めば野党転落を免れたが、それより先に小沢が動いた。
小沢は日本新党の細川護熙を総理に担ぎ、新生党、新党さきがけ、社会党、公明党、民社党、社民連、民主改革連合の8党派からなる連立政権を誕生させ、自民党を史上初めて野党に転落させた。
この激動の中で政治の課題は「小選挙区制導入」一色となり、「国会テレビ」の議論は先送りを余儀なくされた。細川政権の最大使命は小選挙区制の実現である。細川総理と自民党の河野洋平総裁が話し合いを行った結果、細川総理は小選挙区制に消極的な自民党に譲歩し、比例代表に重心を置く小選挙区比例代表並立制を導入することにした。
そして政権誕生から1年も経たない94年4月、細川総理は突然辞任を表明する。辞任の理由は佐川急便からの献金スキャンダルだと噂されたが、今もって真相は分からない。後継の羽田総理は「国会テレビ」の賛同者だったが、社会党の連立離脱によりわずか64日間で退陣を余儀なくされた。
その年は米国のクリントン政権が北朝鮮の核施設を空爆するつもりだった。日本国民には知らせなかったが、羽田政権は第二次朝鮮戦争を覚悟した。しかし韓国側に100万人の死者が出ると予測され、カーター元大統領が北朝鮮の金日成国家主席と会談することになって直前で危機は回避された。
日本では羽田内閣に代わり、社会党の村山富市を自民党と新党さきがけが総理に担ぐ自社さ連立政権が誕生した。裏では小沢と対立する竹下が暗躍したと言われ、自民党は予想より早く政権に復帰した。すると政治とは面白いもので羽田孜が自民党時代に作った衆議院国会テレビ中継小委員会が再開されることになった。
95年6月、衆議院国会テレビ中継小委員会はCS衛星放送かケーブルテレビで衆参1チャンネルずつの「国会テレビ」を開始することを決めた。事業主体は私が提案した公益法人ではなく郵政省が主張した株式会社になった。公益法人は所管が複数の官庁にまたがるが、株式会社なら所管官庁は郵政省だけになる。郵政省の狙いはそこにあった。
経費は衆参両院が年間4億円程度を支出する他、私が提案した企業が商品宣伝ではない寄付でスポンサーになる仕組みが採用された。後は参議院の了承を待つだけになった。ところがそこからが問題だった。参議院で「吊るし」に遭ったのである。
「吊るし」とは、衆議院から送られてきた法案を参議院が様々な理由で審議に入らないことを言う。そうやって参議院は衆議院に自分たちの存在感を誇示する。参議院は「これから勉強する」と言って2年間何もしなかった。そしてもう一つの問題は、自民党分裂が思わぬ障害を作り出していたことだった。(文中敬称略、つづく)