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徳川家を出奔したものの、その後はパッとしなかった石川数正の末路

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石川氏の居城・松本城。(写真:イメージマート)

 前々回の「どうする家康」では、石川数正が徳川家から出奔する一幕があった。しかし、その後の数正は徐々にフェードアウトし、その生涯はパッとしなかったので取り上げておこう。

 天正13年(1585)11月、数正は徳川家から出奔し、豊臣秀吉のもとに走った。数正が出奔した理由は諸説あるが、豊臣家との融和を主張したので、ほかの徹底抗戦派との対立から居づらくなり、秀吉の庇護を求めたというのが実際のところではなかっただろうか。

 なお、石川数正は生涯のうちに何度か名前を変えており、同年3月頃までには主君の家康から「康」の字を与えられ、康輝と名乗ったことが判明する。また、秀吉のもとに走って以降は、臣従した証として、秀吉の「吉」の字を与えられ、吉輝と改名した(以下、数正で統一)。

 数正は家康の重臣だったので、徳川家の機密情報を数多く知っていたと推測される。それゆえ、家康をはじめとする家臣らは、数正の出奔に大いに動揺し、対策に余念がなかったと考えられる。しかし、不思議なことであるが、豊臣家に仕えたあとの数正の動向は、さほど史料上にあらわれないのである。

 秀吉に仕えた数正は、河内国内に8万石を与えられたというが、さほど質の良い史料には書かれていない(和泉国を与えられたという史料もある)。

 天正18年(1590)に北条氏が滅亡すると、数正は信濃国松本(長野県松本市)を与えられ、松本城を築城した。街道や城下町の整備にも力を入れたという。数正が亡くなったのは、文禄元年(1592)のことである。

 松本城天守群は文禄2・3年(1593・4)にかけて、数正の子・康長父子によって築造された。天守群は、大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の五棟で形成された。大天守と乾小天守は渡櫓で繋がれ、月見櫓と辰巳附櫓が複合した連結複合式の天守として知られている。

 慶長18年(1613)の大久保長安事件で、康長が連座して改易になると、信濃飯田(長野県飯田市)から小笠原秀政が入った。しかし、2年後の大坂夏の陣で小笠原秀政・忠脩親子が戦死したので、元和3年(1617)に戸田康長が高崎(群馬県高崎市)から入封したのである。

 このように見ると、秀吉は数正を歓迎したものの、その後は家康と和睦したので、表だって重用することを遠慮したと考えられる。家康もまた秀吉に遠慮があり、出奔した数正に帰参を求めなかった。数正は微妙な立場のもと、それなりに秀吉から処遇されたということになろう。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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