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さあ、日本選手権。社会人野球・監督たちの野球哲学/4 日本製紙石巻・前田直樹

楊順行スポーツライター
開催地・京セラドーム。日本製紙石巻は6日の第1試合でトヨタ自動車(愛知)と対戦(ペイレスイメージズ/アフロ)

○…前田さんの経歴を拝見すると、入社年と部歴に時間差がありますね。

「入社は2001年なんですが、配属されたのは野球とは関係ない東京本社だったんです。当時は、会社がさほど野球に力を入れていない時期。本格的に練習するのは大会前の1週間くらいで、都市対抗出場を目ざしても夢のまた夢でした。ただそれにしても、野球をやるために入社したので、4月に配属を聞いたときはびっくりですよ。東京で営業をやれ、というわけですから。

 ですが野球をやりたい、野球をやりたいと訴え続けていたら、大昭和製紙を吸収した03年にようやく野球部の"新入部員"になれました。ただ社業に就いていた2年間は、クラブチームの練習に入れてもらっていた程度でしたから、1年間は体力がついていかず、使い物になりませんでしたね。09年からチームが強化に本腰を入れ始めると、10年には都市対抗に初出場しました。初戦敗退でしたが、入社当時の野球部を知る人には、都市対抗出場など考えられなかったでしょう。32歳目前の私も、指名代打として出場させてもらいました。めげずに野球を続けていたおかげです。継続は力、なんですね」

○…木村泰雄さん、伊藤大造さんと、強豪・大昭和製紙の流れを汲む先2代の監督がチームを去り、前田さんは、チーム初の"生え抜き"として今季から監督。

「ただ、大昭和カラーを受け継いでこその、日本製紙です。昨年、大事な試合を僅差で勝ちきれなかったのは、メンタルの弱さが一因と考え、今季は座禅などにも取り組みました。野球の技術以前に、人としての器を大きくしたかったんです」

初めて涙を流した高校時代

○…好きな野球は。

「これは高校時代の話ですが、1995年の秋、東北大会に出場し、準決勝まで進みました。翌年のセンバツがかかる大一番でしたが、当時ピッチャーだった私は、前の試合まで絶不調。ところが、その仙台工との準決勝だけは、やけに気合いが入ったんです。1対0とリードした9回、1死二塁のピンチだったんですが、ここでセンターフライを好捕してくれ、飛び出した走者も戻れずに併殺、ゲームセットです。野球人生で、初めて泣いた試合ですね。これが原体験にあるのか、大味な試合よりも、ロースコアのゲームで1点多く取るという展開が好きですね。

 ただ、いざ試合では、何点勝負になるとかパターンは決めたくないんです。3点以下に抑えて4点取ろう、と想定したとしても、野球は生き物ですから、プラン通りにいかないことのほうが多い。そうなったときに"あれ? あれ?"と立ち往生するよりは、どんな展開になっても対応できるような準備をしておくことが望ましい」

○…なるほど。高校時代に晴れて出場した96年のセンバツは、どうだったんですか。

「1回戦は3回、米子東に1対0とリードしているところで雨天中止でした。翌日の再試合は、初回に満塁弾を浴びて大炎上」

○…それこそ、立ち往生ですね(笑)。

「ですから甲子園というと、降板して守備についたレフトのイメージしかないんです(笑)」

※まえだ・なおき/1978.9.6生まれ/岩手県出身/釜石南高→慶応大→日本製紙石巻

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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