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バドミントン・サークルだけではなかった。愛人の屋敷をメチャクチャに破壊した北条政子

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
鎌倉若宮大路の桜と鶴岡八幡宮の鳥居。(写真:アフロ)

 最近の報道によると、ある大学のバドミントン・サークルが旅館の障子や天井などを壊し、大問題になっているという。鎌倉時代、北条政子は夫の源頼朝の愛人だった亀の前の屋敷を襲撃し、メチャクチャに破壊した。その経緯を取り上げることにしよう。

 亀の前は頼朝の愛人だったが、その生涯は生没年を含め、わからないことだらけである。ただ、『吾妻鏡』には登場するので、実在したのはたしかだろう。

 頼朝は伊豆に流された頃から、すでに亀の前と関係していたという。ただし、それが男女の関係だったのか否かは不明である。亀の前は非常に穏やかな性格で、美しい女性だったといわれている。もし、この話が事実ならば、頼朝が夢中になったのも仕方がない。

 しかし、頼朝は流人(=罪人)だったのに、なぜ亀の前と関係できたのだろうか。当時の流人は監視下に置かれたものの、獄舎に繋がれることなく、ある程度は自由に行動ができた。

 そのような事情から、頼朝は妻となった北条政子と駆け落ちしたり、亀の前と関係したりして、流人生活をエンジョイしていたのだ。ところが、そんな頼朝と亀の前に悲劇が訪れた。

 寿永元年(1182)8月、政子は頼家を出産するため、比企谷(神奈川県鎌倉市)に移り住んだ。政子の出産準備は、頼朝にとって好機となった。

 頼朝は鎌倉に亀の前を呼び出すと、小中太光家の屋敷に住まわせた。その後、亀の前は飯島(神奈川県逗子市)の伏見広綱の屋敷に移り、頼朝との関係を続けた。わざわざバレないよう、亀の前を遠くに住まわせるという念の入れようだった。

 ところが、政子は出産を終え、2人の関係を知ると激昂した。政子に頼朝と亀の方の密通をチクったのは、牧の方(時政の妻)だったと伝わっている。

 同年11月、政子は、牧宗親(牧の方の兄)に命じて、広綱の屋敷をメチャクチャに破壊させた。驚いた亀の前は、這う這うの体で屋敷から逃亡すると、鐙摺(神奈川県葉山町)の大多和義久の屋敷に逃げ込んだ。

 これは、「後妻打ち(うわなりうち)」というもので、夫が離縁するとき、元妻が後妻の襲撃を予告して実行する風習だった。ただし、このケースは頼朝と政子の離縁ではないので、人宅にも適用されたようである。

 亀の前のいた屋敷が破壊されたことを知った頼朝は激怒し、宗親の髻を切り取るという恥辱を与えた。髻を切られることは、武士にとって最低の不名誉だった。

 宗親は頼朝に土下座して謝罪したが、決して許されなかった。牧の方は、兄の宗親への仕打ちが許せなかった。それは夫の時政も同じことで、ついに伊豆へと引き籠もったのである。出仕を拒むというのも、時政らの抗議行動の一つだった。

 同年12月、亀の前は再び光家の屋敷に移り、頼朝の寵愛を受け続けたというのだから、反省したのか実に疑わしい。一連の騒動に関与した伏見広綱は、不幸にも政子によって遠江国に流された。あまりに悲惨な話である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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