flumpoolが上京時の葛藤を振り返る「東京にはいろいろ文句はあったけど…」
2021年7月に所属していた芸能事務所・アミューズから独立し、自分たちの会社を設立して新たなスタートを切った人気バンド、flumpool。10月1日には13度目のメジャーデビュー記念日を迎え、独立後初の楽曲『その次に』も配信リリースした。
独立発表時、メンバーは公式コメントのなかで「13年前に親元を離れ故郷を飛び出したあの頃とは、年齢も環境も時代も何もかもが違います。けれど、それでも原点に帰ることでしか見る事のできない新しい景色もあるはずだと、今はそう信じています」と、バンドの出発地点である大阪・松原市での活動初期を思い返していた。
あらためてflumpoolにとって「故郷」はどんな存在なのか。今回は、地元である松原市にできた大型商業施設・セブンパーク天美の開業記念で来場した山村隆太(Vo.&Gt.)、阪井一生(Gt.)に話を訊いた。
――2015年の初単独野外ライブ、2019年1月の活動再開ライブなど、バンドの節目はいずれも大阪で迎えていらっしゃいますね。そのときも「原点」という言葉が出ていました。おふたりにとって「原点」とはどんな光景が浮かびますか。
山村:まさにこの松原の町です。僕、阪井、尼川(元気)が幼なじみで、この3人で音楽を始めた頃の風景が浮かびます。それから音楽をずっと続けていますし。こうやって地元に帰ってくると、学校を卒業して数年後に自分が過ごした教室に戻ってきた感覚になります。「あのときこういう風に音楽をやっていたな」「ここで路上ライブをやったな」とか、自然とそういう話になります。
――ノスタルジックな雰囲気になるわけですね。
山村:僕たちにとって音楽は、あのときから地続きになっているもの。その一歩を踏み出した場所なので。過去を懐かしみ、戻るような気持ちになるし、一方で「次はどんな新しいことを始めようか」とここでいつも話している気がします。振り返ることによって進み出せるものがある。この場所は僕たちにとって根っこの部分ですね。
阪井:大阪でやっていた頃はものすごくガムシャラだったし、とにかく自力でやるしかなかった。今年独立しましたが、「もう一回、自分たちで這い上がろう」という気持ちなんです。そういう意味で、原点に戻る必要がある。今のバンドの状態は、松原でずっと曲を作っていた時代に近い気がします。
――ちなみに松原で生活していた学生時代、おふたりはどんな感じでしたか。
阪井:山村は中学時代、すごく人気あったんです。だから腹が立っていた(笑)。だって休み時間になると、山村が動かなくても周りに人が寄って来ていたから。当時ずっと嫉妬していた。「何であいつの席ばっかりにみんな行くねん」って。
山村:いやいや、俺は一生の方が人気者だった気がするよ。ギターも弾いていたし、お笑い好きだから漫才をやって笑わせてもいた。今と変わらず、多才でエンターテイナーだったから。
阪井:確かに僕は不良のトップと仲良くなれたりして、派手な集団にも馴染めていたんです(笑)。そうやって居場所を整えていた、クラスの1軍にも2軍にも入れたんだよね。マルチプレーヤーというか。
山村:世の中の渡り方をそこで覚えたんやな(笑)。
――バンド結成翌年の2008年、メジャーデビューを機に上京されましたが、住み慣れた町から新しい環境に踏み出すのは勇気がいりませんでしたか。
阪井:「来月から東京に来れる?」みたいな感じで急に言われたんです。だから「えっ、バイトを辞めなあかんやん。どうしよう」みたいな。いろいろ急展開だったことを覚えています。あと、楽しみではあったけど、やっぱり気持ちの面で結構しんどかったです。上京が決まったときもそうだし、東京で暮らし始めてからも環境が違い過ぎて。何もかもが知らない世界だったから。
山村:一人暮らしなんてしたことがなかったもんね。
阪井:「洗濯ってどうやってするの?」みたいな感じで。メンバーに聞いて洗濯の仕方を教えてもらいました。そういうレベルだったから、大阪に帰りたくてしょうがなかった。
山村:僕も地元を離れるのがすごく嫌だった。ずっと松原の実家で暮らしていくつもりだったから。「いつか日本武道館でライブをやりたい」とか音楽で叶えたい夢を持っていたし、上京はそのための大きな一歩ではあったけど、「もうここで暮らすことはないんだな」という寂しさの方が優っていました。
――しかも上京したらなかなか後戻りができないですよね。
山村:そうですね。やっぱり失敗に転ぶ可能性もあったから。夢を叶えたいというよりも、そういう不安の方が強かったです。「好きな音楽で失敗したらどうしよう」という。それを乗り越えられたのはメンバーの存在があったから。ひとりで失敗するのはつらいけど、4人で失敗するんだったら、その選択は間違いじゃないかなという気がしました。
――2011年リリースの楽曲『東京哀歌』では東京暮らしの葛藤や失望が歌われていましたが、あれから10年が経って心境はどのように変わりましたか。
山村:『東京哀歌』のときは、東京ですべてがうまくいっていたわけではありませんでした。挫折や苦しいことをたくさん感じていたんです。故郷に甘えてしまいそうになる自分たちもいました。ただ、その頃になると「たとえ失敗しても、自分には帰る場所があるんだ」と考えることもできた。そこで前に進めたんです。自分にはメンバーもいたし、「東京に対していろいろ文句はあるけど、それでもここで頑張ろうか」と思えました。
阪井:ちなみに僕はもう、今は完全に東京に染まりました(笑)。
山村:それを地元でのインタビューで言うなよ(笑)。だけど今では東京で出会う人の方が多いし、そこでの関係性もすごく居心地が良い。こうやって大阪時代の昔話を笑ってできるのは、東京で頑張れているからこそではないでしょうか。だから余計に地元を尊く感じることができる。これからも大切にしていきたい場所ですね。