チンパンジーはどこまで「人間」か
アニマル・コグニション(Animal Cognition)という言葉があるが、動物の認知というような意味だ。毀誉褒貶あるノーベル生理学医学賞受賞者であり動物行動学の嚆矢でもあるコンラート・ローレンツは『ソロモンの指輪』という本を書いたが、動物の行動を調べることで動物を理解し、その結果「ソロモンの指輪」を手に入れることができる、と述べている。
旧約聖書に出てくるイスラエルのソロモン王は、大天使ミカエルから動物や植物の言葉を理解できる指輪を授けられた。ローレンツの著書のタイトルはこの逸話から取られた。人間は昔から、動物の気持ちを知りたい、と願ってきた。近年になると動物の行動とその進化を理解することは、すなわち我々人間の理解につながる、と考えるようになる。
イルカは「文法」を理解できるか
リチャード・ドーキンスらのいわゆる「利己的遺伝子」理論が登場すると、動物の行動も遺伝子のなせるワザであり、全ては個体維持のために発動する遺伝子の機能によって説明できる、という考え方があらわれた。たとえば最近もヒタキなどのさえずる種類の鳥類が雛鳥のうちにさえずりの違いを聞き分ける能力は遺伝によって決められている、という論文が科学雑誌『nature』に出たりしている(※1)。
だが、やはり「動物はどこまで人間に近いのか」という素朴な疑問は、科学者たちを惹きつけてやまない。我々の「意識」や「心」については、遺伝子を解析してもなかなかわからない。こうした「認知」の進化は、動物を理解することで解明できるのではないか、というわけだ。
ところが、それこそソロモンの指輪でも使わない限り、人間は動物とコミュニケーションすることはできない。動物の「言葉」を理解しなければ、彼らが何を考え、なぜある行動をするのかわからないのだ。
そんなわけで、動物に人間の言葉を教えよう、というアプローチをとる研究者が出てくる。彼らの言葉がわからないのだから、人間の言葉を理解させ、コミュニケーションをとろう、というわけだ。
筆者は以前、ハワイ大学の行動心理学者、ルイス・ハーマンを取材したことがある。ハーマンはワイキキに数頭のハンドウイルカを泳がせたプールを造り、そこでイルカの認知や言語能力の研究をしていた。「ボール」や「浮き輪」など約30の人間の言葉を学んだイルカに、ハーマンは手旗信号を使って「文法」を学ばせた(※2)。
実際に「浮き輪をボールへ持っていく(Take the floating wheel to the ball)」と「ボールを浮き輪へ持っていく(Take the ball to the floating wheel)」の区別がついたイルカに「訓練したのではないか」と聞くと、ハーマンは「人間の仕草などから意図を悟られないように手旗信号で指示する。フェニックスという名前のメスのハンドウイルカは、右や左といった抽象的な概念も理解できる」と答えた。
イルカが「S・V・O・O」で目的語(直接・間接)が入れ替わった「文法」を本当に理解できるかどうか、ハーマンの実験だけで筆者には判断ができない。コンピュータのAI判別法に「中国人の部屋」というものがあって、イルカはそれと似たような行動をしただけなのではないか、という疑問が消えなかった。
「文法」を使えるのは人間と鳥類のみ?
動物が「文法」を操るか、という研究は多い。鳥が「文法」を使っているという研究もあり、ある種の鳥は「XYX」と「XXY」の鳴き声の順序の違いを識別する、という(※3)。鳥類の研究者の中には「文法は人間と鳥類のみが使える」という人も多い。
最近も京都大学の研究チームが鳥類のシジュウカラを使い、文法を使っているから初めて聞いた鳴き声も正しく理解できる、という論文を発表している(※4)。この研究によれば、シジュウカラは「ABC」という音素群と「D」という音素から、それぞれ異なる意味(「警戒しろ」と「ここに集まれ」)を読み解くことで「ABC-D」の組み合わせ音から、それぞれ2つの意味を同時に理解することできるようだ。
「文法を操るシジュウカラは初めて聞いた文章も正しく理解できる」京都大学、鈴木俊貴、生態学研究センター研究員らの研究グループの論文より。
この組み合わせの順序を、人工的に逆(「D-ABC」)にして聞かせるとシジュウカラはほとんど警戒も集まりもしなかったという。このように異なる単語や文節をつなぎ合わせ、その順序に規則性をもたせることで意味の異なった言葉を作り出すことを「合成的統語」という。従来この合成的統語は人間の言語に固有なものとされてきたが、この研究では、人間に限らず動物の情報伝達の基本的機構として進化したものが合成的統語なのではないか、としている。
チンパンジーは「じゃんけん」を理解するか
人間の認知の進化、言語や意識の獲得について、チンパンジーを用いた実験から探っていこうという研究者も多い。チンパンジーと人間の子どもと比較する実験は1950年代から行われている(※5)が、最近も「じゃんけん」を使った実験でチンパンジーは人間の4歳児と同じくらいの認知能力がある、という研究が発表された(※6)。
じゃんけん(Rock-paper-scissors)は、日本発祥の遊技だが、グー(石)がチョキ(ハサミ)に勝ち、パー(紙)に負けるなど、三つのどれも優劣がつかない循環関係にある。こうした「非直線」の関係性を理解することは、高度で複雑な問題解決にもつながる能力であり、人間が持っている基本的な抽象概念と考えられてきた。
じゃんけんをするチンパンジーの「アイ」。京都大学、松沢哲郎、高等研究院副院長・特別教授、高潔(GAO Jie)霊長類研究所 修士課程学生、友永雅己京都大学霊長類研究所教授、北京大学の蘇彦捷(SU Yanjie)教授らの研究グループの論文より。
チンパンジーにじゃんけんを覚えさせた研究者は、チンパンジーの社会は優劣がはっきりした直線的な関係が基本だが、チンパンジーはじゃんけんのような循環関係を理解する能力を進化の過程で発達させてきたのではないか、と考えているようだ。ただ、チンパンジーはグーチョキパーの概念そのものを理解できるわけではなく、また手の構造からチョキがうまくできないらしい。
チンパンジーといえば、筆者は「チンパンジーはチンパンジン」と主張する研究者を取材したことがある。犬山の研究所を訪ね、プラスチックの観察ドームから筆者が顔を出した途端、ものすごい形相のチンパンジーから攻撃された。「これは猛獣じゃないか」とチビリあがっている筆者に研究者は「彼らは石田さんがイチゴをお土産に持って来たことを知らないからなぁ」と笑った。チンパンジーはやはり人間とは違うと実感したと同時に、いや人間も見知らぬ相手には牙をむきだして攻撃しているのではないか、と思い直したことがある。
いずれにせよ、イルカもシジュウカラもチンパンジーも、人間に「いかに近いか」という研究であり、人間の尺度で「できた・できない」という観点から、どうしてもイルカ研究、鳥類研究、チンパンジー研究の範疇から出ていないような気がする。知りたいのはあくまで我々人間の認知や認知の進化である、という視点を忘れてはならない。
※1:David Wheatcroft, et al., "Genetic divergence of early song discrimination between two young songbird species." nature ecology & evolution, 0192, 2017
※2:Louis M. Herman, et al., "Comprehension of sentences by bottlenosed dolphins." Cognition, Vol.16, Issue2, 129-219, 1984
※3:Michelle J. Spierings, Carel ten Cate, "Budgerigars and zebra finches differ in how they generalize in an artificial grammar learning experiment." PNAS, Vol.113, No.27, 2016
※4:Toshitaka N. Suzuki, David Wheatcroft, and Michael Griesser, "Wild Birds Use an Ordering Rule to Decode Novel Call Sequences." Current Biology, Vol.27, No.15, 2017
※5:Keith J. Hayes, et al., "Discrimination learning set in chimpanzees." Journal of Comparative and Physiological Psychology, 46(2), 99-104, 1953
※6:Jie Gao, et al., “Learning the rules of the rock-paper-scissors game: chimpanzees versus children.” Primates, 10, August, 2017