【光る君へ】藤原道兼は、父の兼家から冷酷な仕打ちを受けていたのか
大河ドラマ「光る君へ」では、突如として藤原兼家が病に倒れた。子の道兼は心配して兼家の枕元で看病したが、殴られるという一幕があった。道兼は、幼い頃から父と折り合いが悪く、かわいがってもらえなかったというが、それは本当なのか考えることにしよう。
藤原道兼は、応和元年(961)に兼家の三男として誕生した。ところで、大河ドラマの中での道兼の役回りは、気の毒なものであるといわざるをえない。
そもそも非常に粗暴な人物として描かれている。弟の道長とは仲が悪く、「生意気だ」ということでしょっちゅう殴っていた。それは、身分が低い従者に対しても同じである。
歴史物語の『大鏡』によると、道兼は冷酷な人物であり、人々から恐れられていたと記す。おそらく、この記述が道兼のキャラクターに反映されたのだろう。
もっとも驚いたのは、1回目で「まひろ(紫式部)」の母を刀で突き殺したことである。「まひろ(紫式部)」の母が早く亡くなったのは事実であるが、道兼に殺されたという史料は確認できない。ドラマ上の創作である。
ただ、当時の慣習として、人々は人の死などの「穢れ」を非常に恐れていたので、返り血で血まみれになった道兼がそのまま自邸に戻るとは考えにくい。
大河ドラマの中での道兼は、兼家からたびたび「汚れ役」を命じられるが、こちらも史実としては疑わしい。『栄花物語』や先述した『大鏡』では、道兼の性格を「変質的」、「片意地」と記しており、しかも容貌が悪かったとしている。
つまり、道兼は汚れ役がぴったりということになるのか。とはいえ、道兼は「まひろ(紫式部)」からも嫌われるのだから、気の毒な気がしないわけではない。
永観2年(984)に花山天皇が即位すると、道兼は蔵人左少弁に任じられた。春宮になった懐仁親王(のちの一条天皇)は、詮子(兼家の娘)を母としていた。
兼家にとって、懐仁親王が一刻も早く天皇になることは悲願だった。それは、外祖父として権勢を振るうためである。その際、花山天皇に出家を勧め、懐仁親王を天皇位に据えたのが道兼だった。この点は、ドラマの進行に合わせて、改めて取り上げることにしよう。
兼家が焦っていたのには、もちろん理由があった。花山天皇の母は懐子(藤原伊尹の娘)だったので、その関係から藤原義懐(藤原伊尹の子)が台頭することになった。伊尹は兼家の兄で、摂政を務めた人物である。
しかも、義懐が急速に大出世したので、兼家は焦りに焦った。そこで、道兼を使って、花山天皇の退位を目論んだのだろう。いずれにしても、道兼が兼家から冷たい仕打ちを受けたとは考えにくい。花山天皇退位後、道兼が大出世したのは、その証とはいえないか。