新潟地震から55年、東京オリンピックからも55年
55年前の新潟地震
今から55年前に新潟地震が発生しました。
新潟地震は、昭和39年(1964年)6月16日13時2分に、新潟県沖で発生したマグニチュード7.5の地震です。新潟県と山形県を中心に死者26人、全壊家屋8600棟、浸水家屋1万6000棟などの大きな被害が発生しました。
私は新潟地震のときに、市内の信濃川沿いの中学校の生徒でした。当時、新潟市に住む中学2年生でしたが、その時の記憶が今でも残っています。
地震発生直後に校庭に避難したのですが、そこで校庭に吹き出している砂混じりの水を見ました。これがあとで流砂現象(液状化)と知りました。
津波がくるということで、校庭から屋上に避難しましたが、近所の人たちも、続々と学校の屋上に集まってきました。近くに鉄筋コンクリート製の建物が少なかったためです。
そして、屋上からは、いつもは見えない海が近くの屋根越しに見え、そして、校舎の1階部分がかなりの高さに洗われるさまを一部始終見ました。
図は新潟地震による新潟市の災害状況です。浸水区域とあるのは、津波による浸水区域で、図中の丸で囲んだ数字の1のところが、当時私がいた宮浦中学校の位置です。また、数字の2は新潟地方気象台の位置で、私の自宅の近くでもあります。
新潟地震発生時には、地震がおきたら高い所へ逃げるという、戦前の「稲むらの火」の教育を受けた大人が大勢いました。子供だったので、訳がわからなかったのですが、先生をはじめ、大人たちが地震発生直後から津波を口にし、高い所へ避難しよう、避難させようとしていたのは記憶に残っています。
盛土で高くなっている信濃川沿いを走る白新線の線路上に、多くの人が避難していたというニュースなどがあり、地震が発生したら高いところに、すぐに逃げるということが徹底して行われていたとおもいます。
平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災の津波に比べれば規模が小さいのですが、巻き込まれれでばひとたまりもない津波が県庁所在地の市を襲いましたが、高台への避難が素早く行われ、津波による死者はでませんでした。
当事者でないと、災害に対し、3日後には「飽きる」、3ヶ月後には「冷める」、3年後には「忘れる」といわれていますが、新潟地震の3ヶ月後はオリンピックムード一色となり、記憶の減衰はより大きかったのではないかと思います。
新潟地震の教訓が47年後の東日本大震災の時まで伝わっていたら、もう少し人的被害が減っていたのではないかと思います。
東日本大震災の時、ヘリコプターで津波から逃げまわる車の生中継を見ましたが、車で水平方向に逃げるのではなく、車を捨てて盛土の高速道路の上など小高い場所に逃げる選択をしたら助かったのではないかと考えたりしました。
仙台空港が津波に襲われたとき、空港が津波で被害を受けたのは初めてという報道がありましたが、新潟空港は新潟地震の津波で大きな被害を受けています。
新潟地震での津波のことが完全に風化していたのです。戦前に行われていた「稲むらの火」という子供たちに対する防災教育を継続して行うということは重要だと思います。
キノコ雲と東京オリンピック
新潟地震発生直後から、少し遠くの石油タンクが燃え上がって、キノコ雲があがり、その煙のために数日は薄暗く、肌寒い日が続きました。
そして、断水が長期間続き、中学校は休校、その後仮設プレハブ校舎で授業再開となりました。
被災者には、被害をもたらした地震についての記憶は長く残りますが、被災者以外の人の記憶は、時と共に急速に減衰してゆきます。新潟地震の被害は、いっとき、日本中の関心を集めましたが、新潟市付近を除くと、徐々に世間の関心はオリンピックに移っています。
昭和39年(1964年)10月10日、東京オリンピックの開会式が青空の下で盛大に行われています。
新潟地震で被災した新潟市周辺を除いて、世の中はオリンピック一色となり、4ヵ月前の新潟地震のことは、すっかり忘れさられました。
中学校の校舎は補強工事で使えなくなり、一年ほど、校庭に作られたプレハブ教室での授業でした。夏は暑く、冬は寒いプレハブ教室でした。
しかし、被災地の新潟市でも、東京オリンピックは明るいニュースでした。
東京オリンピックというと、晴れの大会というイメージがありますが、実は、雨が多かった大会です。15日間の開会期間中に、東京で1ミリ以上の日降水量があった日は、約半分の7日もあります(表)。
ただ、人気種目についていえば、マラソンなどの屋外競技の日は雨が降っていません。また、女子バレーボールの決勝戦(対ソビエト連邦)などは雨でしたが、室内競技であり、雨の影響は全くありませんでした。このことも、東京オリンピックを晴れの大会と印象付けています。
しかし、放射能雨の騒動があったことは、全く忘れられています。
放射能雨の騒動
日本中がオリンピックにわきたっていた昭和39年(1964年)10月16 日、中国はタクラマカン砂漠で核実験を行っています。アジアでは初めて、世界で5番目の実験でした。
中国は、台湾にある中華民国が国としてオリンピックに参加することは認めないとして、オリンピック大会のボイコットを続けていました。
昭和39年のオリンピック東京大会もボイコットでした。
そして、オリンピックという世界中が注目しているタイミングで、存在をアピールするかのように核実験をしたのです。
核実験によって生じた放射能を含んだチリが偏西風に乗って日本にやってくるのではないかという懸念があったため、気象庁では全国各地で雨粒や雨が上がった後の大気に含まれる放射能を測定しています。
そして、17 日夜半から18日にかけ、深い気圧の谷が通過してほぼ全国的に20ミリ程度のまとまった雨がふったとき、微量ですが、雨の中に放射能を出す物質が含まれていました。
放射能対策本部(本部長は愛知揆一科学技術庁長官)は、19 日夕方、「中国の核実験によって日本に降った放射能チリは、1平方メートル当たり12万キューリで平常の100倍に達したが、特に人体への影響はない」と発表しました。
起きた期日は忘れても、起きた現象と教訓は忘れない
新潟地震から55年ということは、東京オリンピックからも55年です。
来年は56年ぶりの東京オリンピックですが、新潟地震から56年目ということにもなります。
新潟地震は、地震によって砂や水が噴出する液状化が注目された最初の地震で、新潟市内にあった1500の鉄筋コンクリートの建物のうち310が被害を受けました。
しかし、その後、液状化対策が進み、流砂現象による被害がほとんど発生しなくなっています。
液状化によって砂が吹き出ることはあっても、新潟地震のときのように、ビルが傾いたり倒れたりということは、ほとんどなくなっています。
また、新潟地震による地震保険の必要性が認識され、昭和41年からの地震保険の実用化につながっています。
さらに、新潟地震は、地震発生とともに高台に逃げて津波被害を防いだ地震でもあります。
新潟地震が東京オリンピックと同じ年に起きたことは忘れても、新潟地震の教訓は忘れてはならないと思います。
図の出典:饒村曜(2012)、東日本大震災・日本を襲う地震と津波の真相、近代消防社。
表の出典:気象庁HPをもとに著者作成。