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本能寺の変後、羽柴秀吉が有利になったのは、諸将の不利な配置にあった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
羽柴(豊臣)秀吉。(提供:アフロ)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、羽柴秀吉が天下人への第一歩を歩みはじめた。当時における諸将の配置は、秀吉を有利に導いたので、確認することにしよう。

 天正10年(1582)6月に勃発した本能寺の変の前後、各地で戦っていた信長配下の家臣たちは、どこにいたのか確認することにしよう。

①北陸――柴田勝家を筆頭にして、佐々成政、前田利家、佐久間盛政が加賀、能登、越中の平定に臨んでいた。6月3日には、越中魚津城(富山県魚津市)を陥落させた。

②中国――羽柴秀吉が備中高松城(岡山市北区)を攻囲しており、変の前後は和睦に腐心していた。

③関東――滝川一益が上野厩橋(群馬県前橋市)に滞在していた。

④四国――5月29日の時点で、織田信孝以下、丹羽長秀、蜂屋頼隆、津田信澄が摂津住吉(大阪市住吉区)およびその周辺で待機しており、同年6月3日に四国渡海の予定であった。

⑤摂津――中国方面の救援に向かうべく、中川清秀、高山右近らが待機していた。

 北陸の柴田勝家らの諸将、関東の滝川一益は遠隔地でもあり、情報収集に苦労したと考えられる。特に、勝家らは上杉氏と対峙しており、身動きできない状況だった。上の武将の面々で、もっとも京都に近かったのは織田信孝のほか、高山右近と中川清秀である。

 右近ら2人は秀吉の与力として、中国方面に向かう予定だった。いかほどの軍勢を抱えていたかは不明であるが、とっさに光秀を討とうとするリーダーシップはなかったのだろう。むしろ、信長の死のなかで混乱していたのではないだろうか。

 その後の動きによると、中川氏は秀吉と書状のやり取りをして情報を交換しているので、自ら動くのではなく秀吉を頼りにしていたのは明らかである(「中川家文書」)。

 四国渡海を控えて、摂津住吉に滞在中だった織田信孝らも、京都に近い場所にいた。当時、信孝は二十代の青年武将だったが、信長配下の有力武将に支えられていた。彼らも京都に急行して、光秀を討とうとはしなかった。理由は不明であるが、さまざまな要因が重なって、そこまで考えが及ばなかったのだろう。

 そうした状況下において、唯一、光秀を討つべく京都に向かったのは、羽柴(豊臣)秀吉だけだった。秀吉はすぐさま上洛して明智光秀を討ったので、その軍功は第一と評価され、以後の織田家臣団の中で優位になったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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