明治新政府は海運重視 御召船にもなる灯台巡視船「明治丸」
もともとの「海の日」は明治天皇が明治丸で横浜に御帰着日
昨日(7月17日)は7月の第3月曜日で「海の日」でした。「海の日」が日本の国民の祝日として施行されたの平成8年(1996年)で、7月20日に固定していました。
平成15年の祝日法改正(ハッピーマンデー制度)によって、現在の7月の第3月曜日となり、海の旬間(7月20日~31日)が海の月間(7月)になったのですが、7月20日には意味があります。
7月20日は、明治9年(1876年)に、東北地方巡幸を終えた明治天皇が御召船となった灯台巡視船の「明治丸」で横浜港に御帰着された日です。
明治新政府は、海運を重視して日本周辺に多数の灯台を整備していました。
そして、その灯台を運営するため、最新鋭の船「明治丸」をイギリスに発注しました。
だから、「明治丸」が御召船になれたのです。
気象庁に残されている明治丸の海上気象観測資料には、御召船として使われたころのものはなく、もう少し後のものからです。タイトル画像は、明治27年(1894年) 10月のものですが、右側の欄外には、大型船は観測結果を必ず中央気象台に報告せよという内務省令第11号(明治21年12月27日)が印刷されており、観測結果を確実に集め、少しでも海運に役立てようとのする当時の担当者の気概を感じます。
明治丸は、当時日本における最優秀船であったため、灯台の見回りだけでなく、日本の近代史に様々な足跡を残しています。イギリスとの間で小笠原諸島の領有問題が生じたとき、スピードを活かして英国軍艦より2日早く小笠原諸島に到着して調査を開始し、日本の小笠原領有の基礎を固めたとされています。
その後、明治30年9月に商船学校(現在の東京海洋大学)に譲渡されて練習船となり、幾星霜を経て、我が国唯一の現存する鉄船として重要文化財となり、平成27年3月には大規模修理をおえ、東京海洋大学で美しい姿がよみがえっています。
近代日本の灯台の歴史
近代日本の灯台の歴史は、徳川幕府が開国に伴って,慶応2年(1866年)にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4か国と結んだ「江戸条約」によって8つの灯台(観音崎、神子元島(みこもとじま)、樫野埼、剣埼、野島埼、潮岬、伊王島、佐多岬)の建設を約束したことに始まっています。その後、兵庫開港に備えて5つの灯台建設をイギリスと約束した「大阪条約」などがありましたが、これらの約束は、徳川幕府を倒した明治新政府に引き継がれています。
明治元年(1868年)6月、明治新政府は横須賀製鉄所に観音崎灯台の建設を命じ、同時にイギリスからR.H.ブラントン等を灯台建設のために招いています。
日本初の洋式灯台である神奈川県三浦半島の初代・観音崎灯台は、横須賀製鉄所に雇われていたフランス人技師、F.ウエルニーによって明治元年9月11日に建設に着手、翌2年1月1日に点灯となっていますが、その後の灯台はブラントンによって建設されています。
ブラントンは、明治2年8月に燈台寮雇技師長となり、各地で精力的に行われている灯台の建設と運営の指導を行い、各灯台で天気、気圧、風向・風速などを記録した「天候日誌(天候広報、天気広報)」を月ごとに集めています。
伊豆半島先端の下田の南沖約9キロメートルにある、周囲2キロメートルの溶岩でできた無人島である神子元島(みこもとじま)近海は、古くから「海の墓場」と呼ばれた航海の難所でした。明治3年11月11日(1871年1月1日)に石造りの神子元島灯台が完成しましたが、点灯式には、太政大臣三条実美、参議大隈重信、大久保利通、英国公使ハリス・S・パークスなどの要人が列席しています。
明治政府の期待の高さがしのばれますが、続々と誕生する洋式灯台が日本海運の隆盛を支えています。
気象庁には、明治10年1月以降の灯台の観測記録がマイクロフィルムとして残されています。明治10年1月では、24灯台・2灯船がありますが、東京湾、大阪湾、関門海峡付近に集中しており、ここが明治初期の日本にとって重要地域ということがわかります(図1、表1)。
明治10年当時、気象台や測候所といった気象官署の観測は、明治5年の函館(現在の函館地方気象台)、明治8年の東京(現在の気象庁)、明治9年の札幌(現在の札幌管区気象台)の3か所しかないのに対し、灯台での観測は26か所もありました。
その後、気象官署の観測が増えたとはいえ、灯台の観測数は魅力的でした(表2)。
地理局から燈台局へ気象報と暴風報告の提供依頼
組織的に気象観測を電報で集めれば、暴風雨が予知できるのではないかということがわかり始めると、日本政府にこれを建白する外国人が出始めました。その中の一人が、E.クニッピングで、明治15年1月に地理局の東京気象台に雇われています。
約2か月後の3月10日に、燈台局長に対して,気象報及び暴風報告の提供を求めています。郵送での提供であり、即時利用はできませんでしたが、全国の気象台等だけでは十分な調査ができないためです。
E.クニッピングは,暴風警報を実施するために必要な測候所の配置計画を検討し、8つの測候所を増設しています。その8番目の宮古測候所が開設され、必要と考えられた24測候所が揃った明治16年3.月1日、東京気象台では正式に気象電報で観測値を集めて天気図を作り、暴風警報業務をスタートさせています。
その後、東京気象台は中央気象台に組織替えなりますが、灯台の気象観測が電報で中央気象台東京気象台に送られ、天気予報に使われるようになったのは、明治20年8月23日からです。伊豆下田と神手元島の間に電話が通じるようになったことから、神子元島燈台の観測データは中央気象台に送られ、毎日発行していた印刷天気図に記載されています(図2)。つまり、神子元燈台の観測データは、25番目の観測データとして、測候所の観測データと同じように使われていました。燈台での気象観測は、明治初期の気象業務に重要な役割をはたしています。
灯台記念日は観音崎灯台の工事着手日
明治初期においては,表のように気象台や測候所の数も少なかったため、気象を調査しようとすると、燈台の観測データが不可欠でした。
明治14年に内務省駅逓局管船課を任期満了となったE.クニッピングが、「日本も暴風警報の発表業務を行うべき」との建白を行い、東京気象台に雇われることになりますが、この建白に添付されていたのは、船舶の航海日誌と灯台の天候日誌を使って行った明治11年から13年の5つの台風についての調査です。
組織的に気象観測を電報で集め、暴風雨を予知して防災活動を行うという、日本の警報業務が始まったのは、灯台の観測資料があったからともいえます。
初代・観音崎灯台は、大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊していますが、昭和24年に灯台記念日を決めたときには、観音崎燈台の建設に着手した明治元年9月11日を新暦に直した11月1日としています。
記念日の多くは完成した日であり、着手した日とするものが珍しいためか、「灯台記念日は文化の日(11月3日で制定は昭和23年)の前にもってきた」という俗説を生んでいます。
文化の前に灯りがあるということでしょうが、日本の気象業務の前には灯台があったのは事実です。
図表の出典:饒村曜(2002)、明治の気象業務に重要な役割をした燈台での気象観測、雑誌「気象」3月号、日本気象協会。