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レバノン:ハマス(ハマース)が難民キャンプ内での影響力拡大を図る

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
(写真:ロイター/アフロ)

 中東和平でも、オスロ合意でも、今般の「アクサーの大洪水」攻勢に続く戦闘でも、他の何でも構わないが、世の中では一般に「パレスチナ」と信じられているところ以外にも多数のパレスチナ人が住んでおり、彼らのうち少なくとも数十万人がろくな身分証明書も権利の保障も将来の展望もないまま打ち捨てられているという事実が全く顧みられていない。この「見えない化」現象の最たるものが、レバノン在住のパレスチナ難民だ。彼らは規制をすり抜ける術を持つ一部を除けば、レバノン社会に政治的・社会的に包摂されることもなければ、国際的に手厚く支援されることもなく、ほぼ失業状態で無為に暮らしている。レバノンのパレスチナ難民がこのような境遇に置かれている理由には、現在の政治体制の均衡を保つためには新たな社会集団を受け入れることができないというレバノンの政治的理由がある。また、「パレスチナ難民はいつの日か解放闘争が成就して故郷に帰る人々である」とのアラブ諸国の政治的建前によって現在の居住地で包摂しないという政策上の理由もある。さらに、かつてレバノンのパレスチナ人と彼らの武装組織が、レバノンの官憲をないがしろにして振る舞った結果、レバノン内戦やイスラエル軍のレバノン侵攻といった恐るべき弊害をもたらしたことも、レバノンのパレスチナ難民の境遇が良くないことの有力な理由だ。

 そんなレバノンのパレスチナ難民の間にも、「アクサーの大洪水」攻勢に伴う政治的・社会的変化をもたらしそうな動きが出てきた。2023年12月4日、「レバノンのハマース」名義で、難民キャンプにとどまらずレバノン社会にも大きな影響を与えかねない事業構想が発表された。「レバノンのハマース」が、傘下に「アクサーの大洪水の前衛」との名称の集団を結成し、パレスチナの若人に参加を呼びかけたのだ。声明によると、「アクサーの大洪水の前衛」は、あらゆる場所にいるパレスチナ人が、実現可能で正当な方法で占領に抵抗し、パレスチナ人民の抵抗(スムード)と勇敢な武装抵抗運動(ムカーワマ)とパレスチナ人民の犠牲を支援するため、そしてパレスチナの若人のエネルギーや学術・技術の能力を占領への抵抗に参加させることを目指して結成されたということになっている。ハマース筋によると、この新計画は「アクサーの大洪水」攻勢開始後、レバノンをはじめとする各地のパレスチナ人で歓迎されているそうだ。同筋は、パレスチナの世論は過去30年にわたる和平交渉が何ももたらさなかったことをよく知っており、「アクサーの大洪水」攻勢は彼らを武装抵抗運動に再集結させるべく行われたと指摘した。また、同筋は、「アクサーの大洪水の前衛」は軍事的事業だけでなく、広報、政治、慈善事業、教導事業、教育事業など参加者の能力に応じてあらゆる分野で営まれる活動で、その目的は可能な限り多数のパレスチナ人民を参加させることにあると述べた。

2023年12月4日付「レバノンのハマース」名義の声明の一部
2023年12月4日付「レバノンのハマース」名義の声明の一部

 南レバノンでは、「アクサーの大洪水」攻勢に連動したり引きずられたりする形でヒズブッラーとイスラエル軍が交戦している。今般の戦闘で目を引くのは、今までヒズブッラーが一手に担っていた戦闘に、ハマースやイスラーム聖戦運動(PIJ)といったパレスチナ諸派や、レバノン国内のスンナ派のイスラーム主義組織の要員が参加していることがある点だ。ヒズブッラーは南レバノンでの戦闘が同党の命運を左右するような大規模な紛争になるのは嫌なので、イスラエルとの紛争の頻度や質を一定の範囲内に制御して営んでいる。そこでは、パレスチナ諸派やその他の武装集団の活動も、ヒズブッラーの管理下にあると信じられている。従って、「レバノンのハマース」による「アクサーの大洪水の前衛」結成という事業も、ヒズブッラーの承認を受けその管理下で進められるものと考えることもできる。その場合は、ガザ地区での破壊と殺戮の強度や、同地区の住民の強制移住に向けた準備のテンポを落とそうとしないイスラエルに対し、ヒズブッラーの側が講じることができる紛争の強度を上げるための措置の一つとの意味を持つだろう。また、ヒズブッラーとパレスチナ諸派が戦列を共にする「抵抗の枢軸」にとって、レバノンや世界各地のパレスチナ人民の抵抗運動が盛り上がることは、現在の状況をガザ地区やハマースの問題へと矮小化しようとする諸当事者に対する反撃ともなろう。

 また、今般の「レバノンのハマース」の動きは、レバノン在住のパレスチナ難民の間で影響力の拡大、政治的勢力図の変更を図るハマースの試みともいえるだろう。レバノン(とシリア)のパレスチナ難民キャンプの住民は、パレスチナへの帰還権を主張し、(いつになるかはわからないが)帰還の際の権益配分を円滑に受けるため、パレスチナの抵抗運動組織のいずれかと一定の関係を持っている。また、キャンプやその住民には一定の自治(というよりは行政上のネグレクト)があるので、これらのパレスチナ諸派はキャンプ内の治安維持や住民向けのサービス提供を担っている。レバノンとシリアのパレスチナ難民キャンプの場合、パレスチナ自治政府(PA)の与党のファタハや、シリア政府と提携関係にある世俗的な政治信条を掲げる抵抗運動諸派がキャンプを管理していることが多く、1990年代に入って両国に進出してきたハマースがここに割って入ることは簡単ではなかった。ところが、過去数年、パレスチナ人民の権利擁護でも、和平交渉でも、イスラエルに対する抵抗でも、ほとんど実績を上げられないPAと与党ファタハに対し、レバノンのキャンプの一部でハマースの差し金とも疑われる治安騒擾や奪権闘争のようなものが起きつつあった。今般のガザ地区での戦闘でもPAやファタハは何の役にも立っていないので、「アクサーの大洪水の前衛」への結集呼びかけは、現下の情勢を足掛かりにレバノンでも政治的勢力図の塗り替えを図ろうとするハマースによる、パレスチナ諸派内の権力闘争としての意味も持ちそうだ。

 しかし、「アクサーの大洪水の前衛」で各地のパレスチナ人を武装抵抗運動に集結させようとする事業の前途は多難だ。例えば、この事業の中心地となるだろうレバノンでは、パレスチナ人がレバノンの官憲どころか同国の安全保障・外交政策を顧みずに武装抵抗運動に邁進することは、かつてファタハがレバノン領を半ば占拠する形で活動した嫌な経験の焼き直しに過ぎず、「アクサーの大洪水の前衛」の発足宣言は既に様々な政治勢力から非難されている。レバノンだけでなく、パレスチナ難民を受け入れている他のアラブ諸国にとっても、自国の政策や治安を無視してパレスチナ人の政治運動・抵抗運動が活動するのは迷惑でしかないので、各国は表向き抵抗運動への集結を支持するかもしれないが、現場ではそうした動きを厳しく監視・統制しようとするだろう。今後「アクサーの大洪水の前衛」の事業がどのように営まれようが、それは長年パレスチナの外にいるパレスチナ人のことを「見えないふり」してきた「国際社会」に対する問題提起・挑戦の一形態だ。従って、「アクサーの大洪水の前衛」の事業は、現在の状況をガザ地区という小さな地域の街区や施設の問題として封じ込めるか、パレスチナ問題、アラブ・イスラエル紛争、中東全体の国際関係の問題として包括的に対処するかという場面設定の問題でもあるのだ。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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