なぜ日本には政権交代が起きないのかを考える(その1)
フーテン老人世直し録(619)
霜月某日
立憲民主党代表選の告示が行われた11月19日は、コロナ禍で傷んだ日本経済をどう立て直すか、岸田政権が大規模経済対策を閣議決定する日であり、また海の向こうでは大谷翔平選手が、アメリカン・リーグのMVP(最優秀選手)に選ばれるかどうかという日であった。
どうしてそんな日に立憲民主党は代表選の告示を行ったのかフーテンは不思議に思ったが、案の定、立憲民主党代表選のニュースは2つの大ニュースに埋没し、国民には極めて印象の薄いものとなった。
かつて社会部記者として東京地検特捜部を担当した時、特捜部のメディア操縦の巧みさに驚かされた。彼らは政界の権力者を摘発する時、まず権力者の悪評をメディアに書かせ、国民に「悪い奴だ」と思わせたところで捜査に乗り出す。
従って特捜部は初めから「正義の味方」として国民の前に登場する。しかも捜査に乗り出す時は、他に重大なニュースがない日を選び、新聞社には事前に「明日の紙面は開けておけ」と通告する。それは自分たちの捜査を大々的なニュースにし、国民から拍手喝さいを浴びるためだ。
権力と権力が相対立する時、メディアを自分の側に付けた方が勝負に勝つ。自民党はそれを分かっているから、メディアが飛びつくツボを押さえ、総裁選を国民的関心事に仕上げることに注力する。
岸田総裁を誕生させた総裁選では、河野太郎を対抗馬にして世代交代をアピールし、若手議員が「党風刷新の会」を立ち上げ、自民党が安倍晋三、麻生太郎、菅義偉、二階俊博という権力集団に牛耳られているだけではない印象を与える。
選挙結果で世代交代は成らなかったが、「党風刷新の会」を主導した福田達夫は、党最高意思決定機関の総務会長に抜擢され、河野太郎や小泉進次郎と並ぶ次代のホープとして世間に認知された。
また思想的に対立する野田聖子と高市早苗の両女性候補もそれぞれ要職が与えられ、彼女らには左右両翼の支持者を繋ぎ留める役割を果たさせる。同時に安倍政権時代に徹底的に干された石破茂にも光を当て、自民党総裁選は「安倍一強」から多様性のある自民党に生まれ変わった印象を国民に与えた。
それに引き換え、立憲民主党の代表選はあくまでも地味である。地味であるだけならまだいいがそれでもない。枝野代表辞任によって党風を一新する代表選挙だと思うのに、4人の候補者のうち2人は枝野前代表が顧問を務める旧社会党グループに所属する。また1人は民主党政権時代に枝野前代表が支えた菅直人元総理のグループ所属だ。
つまり候補者のうち3人は、民主党政権の最大の負のイメージである東日本大震災時の主役、菅元総理と枝野元官房長官コンビが裏から操ることになる。一新に値する候補者は1人しかいない。
ところがメディアには枝野前代表時代の政調会長だったことが強調され、政調会長でありながら枝野前代表と距離のあったことは伏せられる。これでは枝野辞任はただの見せかけになりかねない。代表選で枝野体制が存続する可能性があるかもしれないのだ。
枝野前代表は自民党総裁選の後、「自民党は変われない。変わらないことがはっきりした」と酷評したが、その直後の総選挙で自身の立憲民主党が自民党に敗北した。選挙結果は、「野党が変われないから自民党は変わらない。それがはっきりした」ということだ。
立憲民主党が変わらない限り、自民党の万年与党は続くと思うのに、その緊張感が立憲民主党にない。だからフーテンはブログに「解党的出直しを図るべき」と書いたが、「解党的出直し」にならない代表選を見せられている。立憲民主党はなぜ変われないのか。そしてどこまで甘えているのか。
それは「55年体制」の社会党と共産党が「権力を奪取しない」ことを生業にしてきたことと無縁でない。野党が権力を奪取すれば、この国を経営する責任が生まれる。それよりも自民党に権力を委ね、その自民党を批判していれば、国民から一定の資金と票が得られる。
フーテンはそれを「野党業」と呼ぶが、それが許されたのは、東西冷戦下に作られた保守本流の「軽武装、経済重視」路線に、野党の護憲運動が合致していた時期で、東西冷戦が終わった30年前から、日本は政権交代を狙う本格野党を作る必要に迫られた。
ところがそれがうまくいかない。なぜうまくいかないのかをフーテンの私的な経験を基に考えてみようと思う。そう思うのは最近の政治状況が「55年体制」の復活を思わせるからだ。つまり自民党の派閥政治が復活してきた。
自民党の派閥政治は野党が権力を奪おうとしないことから始まる。自民党と野党の間に権力闘争はなく、野党は自民党政治を批判するだけだから、国民は野党にブレーキ役は期待しても権力を与えようとはしない。
権力闘争は自民党の5派閥によって行われた。派閥にはそれぞれ総理候補がいて、異なる政策を掲げて総裁選を戦った。その選挙に国民は参加していない。日本の権力闘争は国民も野党もいないところで行われ、しかしそのことで権力が一人に集中する独裁にならず、あたかも政権交代が行われているかのような錯覚を国民に与えた。
初めて「政権交代」が意識されたのは、ロッキード事件が起きた1976年である。田中角栄前総理が逮捕され、その衝撃で社会党への政権交代の可能性が考えられた。だが「社会党にその準備はない」とすぐさま否定された。何が起きても政権を取らないのが社会党であることがフーテンにも分かった。
そしてその頃から、自民党だけでなく野党の中からも、「日本には米国の共和党に相当する政党がない」との議論が起きた。当時の米民主党はフランクリン・ルーズベルト大統領の「ニューディール政策」によって「大きな政府」の政策を採用していた。
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