【悲報】自分のことを「論理的だ」と感覚的に言う人たち
■自分のことを「論理的だ」と感覚的に言う人たち
「横山さんって本当にロジカルですよね」
「どうやって、そのように論理的に物事を考えられるようになったんですか」
と、よく尋ねられる。私が何かを主張する際、必ずそのための根拠をあらゆる面から集めてきて提示するからだろう。
たとえば、「やる気が出ない。やる気が出ないときは、どうすればいいのか」と質問されたら、
「やる気を出すためには、やるしかありません」
と私は主張する。そのための根拠はこうだ。
手足を動かし、脳の「側坐核」という部位に刺激を与えると「側坐核」が活性化され、神経伝達物質・ドーパミンが分泌される。ドーパミンが分泌されれば、やろうとする気持ちがだんだんとわきあがってくるものである。
つまり、何かをやる前に「やる気」という感情は存在せず、何かをやった後に、しか「やる気」という感情は生まれない。だから、やる気を出すためにはやるしかないのである。
東京大学の脳研究者、池谷裕二教授の、
「そもそもやる気という言葉は、やる気のない人間によって創作された虚構である。だから、やる気を出すための方法を考えるほど無駄なことない」
という言葉も添えてこの根拠を説明すれば、誰も反論できないだろう。
何を主張するにしても、「なぜそうなのか?」「なぜそうする必要があるのか?」を考えるクセが私にはある。なので、客観的に見たら私は論理思考力が高そうに見えるかもしれない。
しかし、残念ながらその点における自己評価はとても低い。
なぜなら、今でも論理思考力をアップするための講座を受講したり、その手の書籍をずっと読んで勉強しているからだ。
しかも情けないことにロジカルシンキング系の書籍を1回読んだだけでは、私はすぐに理解できないことが多い。
同僚のコンサルタントに説明してもらえないと、文脈を理解できないこともある。だから、「横山さんってロジカルですね」と言われると強い違和感を覚える。
野球選手でたとえれば、プロ野球選手になれるかどうかのレベルだろう。なれたとしても、たぶん一軍に定着することは難しい。私の論理思考力など、そんな程度だ。
■なぜ「論理的だ」と思うのか? その根拠は?
私がすごく驚かされるのは、自分のことを「論理的だ」と捉えている人が非常に多いということだ。
私はよくセミナーの冒頭に、
「自分は論理的か、感覚的か、どちらだと思いますか」
という質問をする。私のセミナーには、だいたい経営者か中間管理職(90%以上が男性)が参加するのだが、その答えの大半は、
「どちらかというと論理的」
というものだ。私はすかさず、次のような質問を足す。
「その根拠を教えてください」
すると、ほとんどの参加者は答えに窮する。なぜ自分が「どちらかというと論理的だ」と思ったのか。
「前田さんは、どうしてご自身を論理的だと思われたのですか」
「木村さんはどうですか。どちらかというと論理的と判断された根拠は何でしょう?」
このように質問すると、ほとんどの人は腕を組み、考え始める。おそらく、その根拠はないのだろう。根拠があるのなら即答できるはずだ。
つまりこれは、感覚的に自分のことを論理的だと認識している、ということだ。これは非常に矛盾した言い分ではないかと思う。
また野球選手でたとえてみよう。
「あなたはプロ野球選手になれそうですか?」
と質問されて、感覚的に「はい」と答える人はいるだろうか。これまでの実績や、客観的な評価を引合いに出し、
「……このような理由で、私はプロ野球選手でもやっていけると思います」
と主張するだろう。主張には根拠が必要だ。正しいかどうかは別にして、常に根拠をセットに主張すべきなのだ。にもかかかわらず、
「なぜ?」
と質問されて口を閉ざしてしまうようでは、まったく論理的ではない。論理思考の「思考」というのは、まさに「思考プログラム」のことだ。
思考のクセが感覚的だから、自分のことを「論理的だ」と何となく、感覚で表現してしまう。だから矛盾している。
■なぜ日本企業のマネジャーは論理思考力が低いのか?
歯止めのきかない人口減少と、価値観の多様化により、以前にも増して生産性の高い仕事が、どの企業にも求められる時代となった。
生産性を高めるには、個人よりも組織マネジメントの精度を上げることだ。したがって、マネジャーの力量が成否を分けると言ってもいい。
しかし限られた資源で大きな結果を出すには、論理思考力が不可欠だ。ロジカルに物事を考えられないマネジャーに組織運営を任せたら、いつまでたっても不必要な業務はなくならない。解決すべき問題も、積みあがっていくばかりだ。
それでは、論理思考力の高いマネジャーを選任すればいいという意見もあるだろう。しかし悲しいかな、総じて日本のマネジャーは論理思考力が低いのだ。
なぜ、日本人は論理思考力が低いのか?
学校教育において、ほぼ「答えのある問題」しか触れてきていないからである。
したがって「答えのない問題」を解決するために、筋道を立てて推論し、自分なりの言葉で主張することに多くの日本人は慣れていない。
だから社会に出ると「答えのない問題」に直面し、混乱してしまう人が増えるのだ。
とくに問題解決能力が求められるマネジャーは大変だ。「答えのない問題」しか身の回りに起こらないからだ。
たとえば、あなたがマネジャーだとして、部下から「どうして働き方改革の時代だから、残業を減らさなくちゃいけないんですか」と質問されたとき、どのように答えるだろう。
言葉に詰まったり、以下のように返答したら、まるで論理思考力がないと言える。
「そりゃあ、そういうもんだろ」
「会社が取り組んでいる方針なんだ。社長が言ってただろう」
「俺に聞かれても知るか」
■ マネジャーに必要な「絶対論感」
それでは、論理思考力を身につけるにはどうすればいいのだろう。
論理思考力を身につけるには、本を読んだり、研修を受講するだけでは身に付かない。思考プログラムというのは、過去の体験の「インパクト×回数」でできあがっている。したがって、スポーツと同じように体に馴染むまでトレーニングを繰り返すことが大事だ。
とくに私が重要だと感じているのが「絶対論感」だ。論理に対する感覚と言おうか。論理的かどうかを瞬時に認識するスキルである。
※もちろん「絶対音感」からインスパイアされた造語である。
私は前述したとおり「ロジカルシンキング」の専門書を執筆できるほどのレベルではないが、その物事が「理にかなっているかどうか」ぐらいの判別は瞬時にできる。
誰かに何かを主張したいとき、「絶対論感」がある人なら、
「主張を裏付ける根拠が必要だし、そのデータも見つけておきたい」
とすぐに思いく。大事なことは、そうしなければ説得力ある話し方にならないと感覚的にわかるかどうか、ということだ。
しかし「絶対論感」がない人は何かを主張したいとき、立ち止まることなく、まず主張する。
そして、主張してから「その主張を裏付ける根拠」を探しにいく。
「あなたは感覚的か、論理的か」と質問されて「どちらかというと論理的だ」と答えてから、なぜそう主張するのか、その根拠を後付けで考え始めたら、もうその時点で「絶対論感」がないと判断しよう。
いつも「根拠ありき」で発言しているのか、それとも「結論ありき」かを自己分析してみるのだ。
「根拠ありき」の習慣を身につけるには、何か結論付ける前に、いったん立ち止まって考える。そして根拠を探そうとするのだ。このプロセスにおいて、因果関係のある根拠が見つからなければ、主張するのを思いとどまるといい。
「衝動的にこう思ったが、よく考えてみると、思い込みのようだ。言わなくてよかった」
となる。
また、「おそらくこうだろうが、データを集めてみないと、そうとは限らないかも」と思い、データを使って分析してみると、
「そうか。そうなのか。統計データを見ると、私が主張しようとしていたことが必ずしも正しいとは言えない」
と、このように思いなおすことができる。
論理思考力は「思考のクセ」さえ修正すれば、必ず身につくスキルだ。感覚的に判断してしまうクセのある人は、衝動をコントロールし、立ち止まる習慣さえ体得すれば問題ない。
いっぽう「結論ありき」の態度は、マネジャーとして失格だ。すでに主張した後に「根拠」を探すわけだから、バイアスのかかった根拠を引っ張り出すことになる。このような悪いクセは、早急に治そう。そうでないと説得力のない主張を繰り返すことになる。
人が言い訳するときの思考プロセスと同じだ。「結論ありき」の態度だと、相手から信頼を得られない。だからマネジャー失格だと烙印を押される。
■「絶対論感」でわかる2つのポイント
それでは「絶対論感」があると何がわかるのだろうか。細かく分析する前の、瞬間的に判断するスキルなので、
1)全体と部分の「包含関係」
2)部分と部分の「因果関係」
以上、2つのことだけだ。
物事の全体像をとらえ、全体と、全体を構成する部分とが網羅的になっているか(もれなく、だぶりなくの関係となっているか)。そして、部分と部分との関係が飛躍していないか(正しく繋がっているか)。――この2つである。
しかし、この2つのことが感覚的に知覚できれば、だいたい事足りる。ロジカルシンキング研修で勉強する事柄のだいたいすべてが、この2つの要素の応用だからだ。
たとえば、誰かの話やコメントを聞いただけでも、
「なんかつじつまが合わない」
「そうとは言い切れないのでは」
「それだけでない気がする」
「必ずそうなるのかな。偶然では?」
「抽象的すぎる」
「それは手段であって、目的じゃない」
「その順番でいいのかな」
という疑問を持つことができる。違和感を覚えることで、考える機会を得られ、考える機会があれば、検証するための行動をすることができる。
ここがとても大事なポイントだ。
なぜなら検証行動を繰り返すことで、論理思考力が鍛えられるからだ。
そしてロジカルシンキング研修などを受講し、知識武装すると、以下のように言語化できるようになってくる。
「それは結果であって、原因ではない」
「論点の異なるテーマが混ざり合っている」
「前提条件が違うから、噛み合わない」
「仮説が論点とズレている」
「論理が飛躍している」
「偶然の必然化だ」……等々。
■「絶対論感」の持ち主は素直になる
このように、訓練によって「絶対論感」が身につくと、いろいろなメリットがある。説得力のある主張ができる。意思決定する際に迷いがなくなったりできる。仮説の精度を上げて挑戦できるし、失敗しても次に生かすこともできる。
また、意外にも「絶対論感」を持っている人は「素直」になる。そして「柔軟」にもなる。「結論ありき」ではなく「根拠ありき」という思考プログラムが手に入るからだ。
「根拠ありき」の態度であれば、自分が間違っているとわかると訂正する。
自分の主張を撤回するのは、誰でも気が引けることだろう。しかし論理思考力が高い人は論理的でない態度をとりつづけることのほうほうがしっくりこない。だから間違いは間違いだと言って撤回するのだ。
しかし論理思考力が低い人は「結論ありき」なので、自分の主張を曲げない。たとえ「つじつまが合わない」「一貫性がない」と指摘されても、都合のいい根拠を持ち出して、自分の主張を通そうとする。
このような素直でない人を、周囲は信頼しようとしないだろう。マネジャーであれば、なおさらだ。
グーグルの開発した人工知能(アルファ碁ゼロ)が、囲碁の世界で人間を超えることができたのは、論理的なプログラムが搭載されていたわけではない。最初はでたらめに指し手をつづけていたAIだが、膨大な数の失敗体験を通じて学び、囲碁のルールで「どうすれば勝つことができるか」を学習していったからだ。
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