家は断絶したが、おもしろいエピソードがある平岩親吉の意外な一面
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、瀬名と松平信康が処分されたが、平岩親吉も注目されなかった。親吉の死後、平岩家は断絶したが、親吉にはユニークなエピソードがあるので紹介しよう。
天正11年(1583)、甲斐を支配することになった徳川家康は、親吉に甲府城(山梨県甲府市)を築くよう命じた。そして、親吉は岡部正綱とともに甲斐の支配を担当した。その7年後、親吉は家康の関東転封に伴い、厩橋(群馬県前橋市)に移った。
慶長6年(1611)、親吉は再び甲府に戻り、その2年後に徳川義直(家康の子)が尾張藩主になると付家老となり、同時に犬山藩主となった。慶長16年(1601)に親吉は亡くなったが、子がなく平岩家は断絶することになった。そんな親吉には、おもしろい逸話がある。
伏見城の完成後、豊臣秀吉は歳末の祝儀として、井伊直政、本多忠勝、榊原康政、平岩親吉に百枚の黄金をそれぞれに贈った。直政と忠勝は家康に報告しなかったが、康政が家康に報告すると、「黙って受け取るように」と回答があった。
親吉は黄金を持参した秀吉の使者に対して、「私は家康様に仕えており、その禄で十分に生活ができている。今、家康様から禄を受け取りながら、黄金を受け取ることはできない」と述べ、受け取らなかった。家康は親吉に私利私欲がなく正直だったので、子の信康や義直の後見を任せたという。
あるとき、親吉の弟の平右衛門が榊原康政と口論し、喧嘩となることがあった。親吉は喧嘩の一件を耳にすると、「康政は今こそ若く小身だが、才智勇敢なのできっと役に立つ人材になろう。しかし、弟は役に立たず、無駄に禄を食むだけである」と述べた。
その後、親吉は康政を取り立てたが、弟を依怙贔屓しなかった。のちに、康政は「天下の英傑」と賞賛されたので、人々は親吉の眼力に感嘆したという。しかし、黄金の話も康政の話も、後世に成った『名将言行録』に書かれたもので信が置けない。
慶長16年(1611)、家康が二条城で豊臣秀頼と会見した後、護衛役の加藤清正が急死した。会見の直前、家康は秀頼の毒殺を計画し、親吉が自ら毒見した毒饅頭を秀頼に勧めた。しかし、清正が事前に察知して、秀頼を守るため自分で食べたという。
饅頭の毒は遅効性だったので、親吉が亡くなったのは、その9ヵ月後だった。とはいえ、「加藤清正毒饅頭暗殺説」は『十竹斎筆記』という後世の史料に書かれたもので、史実とは認めがたいと考えられる。