日本のウエディングを「民主化」 桂由美さんの業績を振り返る
ブライダルファッションの第一人者、桂由美(本名・結城由美)さんが亡くなりました。2024年3月のファッションショーで元気な姿を拝見したばかりだったので、突然の訃報に接し、今でも信じられない思いです。桂さんの業績は一般的には「ウエディングドレスを日本に広めた」と表現されますが、それだけにとどまらない、女性へのエンパワーメントがいっぱいあります。足跡を、ダイジェストで振り返ります。
日本初のブライダルファッションデザイナーに
洋裁学校の跡継ぎを期待されていた桂さんは共立女子大学の家政学部被服学科に進みました。演劇好きだったことから、最初は文学座の研究生も兼ねていたそうです。演劇を通して養った、ドラマティックな表現力は後にウエディングの演出にも役立ったようです。大学卒業後、フランスに留学。20カ国もの結婚式を視察して、ウエディングドレスが日本でも広まる可能性を確信します。
東京オリンピックが開催された1964年には日本初のブライダルファッションデザイナーとなり、翌65年、日本初のブライダル専門店を東京・赤坂にオープンしました。まだ国内でのマーケットがほとんど存在しない段階で、いきなり店舗を構えてしまうところに、大胆な企画・マーケティングの資質がうかがえます。
65年当時はウエディングドレスの着用率が3%だったそうです。婚礼衣装の主流は圧倒的に和服。でも、今では比率が逆転。90%以上がドレスを選んでいるようです。この劇的な変化を呼び込んだのが桂さんでした。和服しか選べなかった新婦にドレスという選択肢を用意したのは、画期的な功績と言えるでしょう。
「婚礼」→「ブライダル」の言葉を広めた
65年以来、自らの名前を冠した「YUMI KATSURA(ユミカツラ)」ブランドのクリエイティブディレクターを務めてきました。急逝するまで現役を貫き通したキャリアは日本のウエディング史と重なり合います。そもそも60年代の日本では「婚礼」が一般的な呼び名で、「ブライダル」の言葉を広めたのも桂さんだといわれます。「ブライダルの伝道師」と呼ばれるゆえんです。
60~70年代の当時は和服が稼ぎ頭だったので、ドレスは苦戦したようです。百貨店にもブライダルサロンがなかった時代です。桂さんは自ら店舗を構えて、販路を広げていきました。ブライダルに関する著書もたくさん出して、知識の面でもウエディングの魅力をアピール。自ら仕掛けてチャンスをつくる行動力はその後もブランドの成長を押し上げる原動力となりました。
大きな転機になったのは、81年のニューヨークです。マーメイドのように優美なトレーンを引くドレスは「ユミライン」と呼ばれ、人気を博しました。パリで習い覚えた立体裁断が桂さんの強み。パリでも発表を重ね、「ユミカツラ」ブランドの知名度は高まっていきました。日本でも洋風結婚式が当たり前になり、ドレス需要も拡大。「ユミカツラ」は「憧れドレス」の代名詞的存在に育っていきます。
「ユミカツラ」が日本で支持された理由の一つに、日本人女性の体型になじむシルエットが挙げられます。パリ仕込みの立体裁断を操って、日本人女性にフィットして、美しさを引き出すカッティングを施しました。日本の繊細な手仕事技を生かして、気品を醸し出すディテールを作り込んだのも、細部にまで妥協したくないと考える新婦の気持ちをとらえたようです。
80年代以降はウエディングドレスも多様化が進みました。カラードレス、オフショルダー、ミニドレスなど、バリエーションが多彩に。拡張するニーズを受け止めて、お色直しを何度も重ねたくなるようなドレスを用意した「ユミカツラ」は著名人の結婚式・披露宴でも頻繁に選ばれるようになり、ますます特別なブランドとしての地位を確立していきました。
自分らしく選ぶドレス ウエディングの民主化
かつては「家と家」の結びつきを知らしめる意味合いが強かったのが日本の結婚式・披露宴です。結ばれるカップルが主役の「民主的」なセレモニーに位置付け直すという変化の象徴になったのは、新婦が自ら選ぶ「ドレス」という服でした。嫁ぎ先の家風に染まる儀式でもあったお色直しも、ドラマティックな演出に変わりました。そうしたウエディングの様変わりを呼び込んだのが桂さんです。
カップルに寄り添うというスタンスを貫いた桂さんは日本の結婚式のありようまでも書き換えたと言えるでしょう。結婚するカップルにとって最初の公式な舞台となるウエディングは、そのカップルにとっての結婚の意味を示す出来事でもあります。自分がまとうドレスを、自分らしく選べるように変えた桂さんの功績は、今に至る女性へのエンパワーメントの先駆けと言っても過言ではありません。ウエディングの民主化に道を開いてくれた桂さんのご冥福をあらためてお祈りします。
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