ビジネスでも先駆者だった森英恵さん 「エレガンス」を生きた人生とは?
亡くなられた森英恵さんが特別だったのは、ご本人が「エレガンス」を体現していた点でしょう。女優の黒柳徹子さんが「彼女のような女性になりたい」と願ったことからも分かる通り、自らが洗練と華やぎを兼ね備えた、日本人女性のロールモデルでした。憧れの対象となる「ファッションデザイナー」のイメージを日本に広めたのも森さんの存在。ビジネス面でも成功を収め、エグゼクティブ女性という意味でも先駆者でした。
きちんとまとめ上げた髪型、大ぶりのサングラス、スッと伸びた背筋、そして流麗なパンツスーツなど、森さんの立ち姿は多くの人がすぐに思い浮かべることができます。凜としてプラウド。上品で端正。レディーに求められる条件をすべて満たす装いを常に人前で披露し続けた生涯は、日本に「きちんと整ったおしゃれ」の原型を無言のうちに指し示してくれたようでもありました。そのようなデザイナーの出現は、森さんが最初だったのではないでしょうか。
様々な面でパイオニア、先駆者として、後に続く人たちへ道を開いてくれた功績は書き尽くせないほどです。たとえば、クリエーションの面では東洋と西洋を融和させる「イースト・ミーツ・ウエスト」を軸に据えて、後のファッションのボーダーレス化を呼び込みました。森さんが蒔いた種は、高田賢三さんが育て、西洋志向だったパリのモード界を様変わりさせます。日本人のルーツを重んじる森さんの姿勢はその後の日本人デザイナーたちの成功にもつながったようです。
エレガンスを通して、女性のエンパワーメントにつながる服
ヨーロッパからの「借り物」的なところがあったかつての「洋服」に、日本人女性が自信と共感を持って着られるデザインを用意したのも、森さんの功績です。体型や自意識などの面で欧米人とは異なる日本人女性に向けて、「森流エレガンス」を提案。蝶々や花などのあでやかなモチーフ、フリルやレースなどの繊細なディテールを組み合わせて、優美でありつつ、派手すぎない、節度や気品を備えた装いに導きました。こうしたクリエーションは着る人が自信を持てるエレガンスを通して、女性のエンパワーメントにつながったと感じます。
東洋人で初めて認められた「パリ・オートクチュール」
「初めて尽くし」のトップランナーでした。1977年にパリのオートクチュール組合の会員に東洋人で初めて迎えられたのは、今なお語り伝えられる偉業です。日本ではいわゆるパリコレクション(通称パリコレ)で発表されるプレタポルテ(高級既製服)と、注文服であるオートクチュールとの区別があまり理解されていないところがありますが、オートクチュールを手がけているブランドはほんのわずか。技術や美意識が認められた、特別なデザイナーだけの舞台です。
森さんが70年代にこの舞台へ上がったことは、日本人デザイナーの国際的なポジションを引き上げるうえで大きなプラスとなりました。現在も「YUIMA NAKAZATO(ユイマナカザト)」ブランドの中里唯馬デザイナーのように、パリのオートクチュールコレクションに参加している日本人の創り手がいます。
ユニフォームを手がけ、ライセンスビジネスを成功に導く
企業の制服やスポーツイベントのユニフォームをデザインする流れをつくったのも、森さんの大きな仕事でした。日本航空(JAL)の制服を長く担当。バルセロナ五輪では日本選手団の公式ユニフォームを手がけました。
友禅染やちりめんなど、日本で受け継がれてきた職人技や素材を取り入れるのは、森さんがニューヨークで発表した最初のコレクションから守り続けたポリシーです。日本の伝統的な服飾技術を、現代的な洋服とクロスオーバーする試みは、ブランドのシグネチャー的表現ともなりました。
ファッションの枠を超えるような成功も、先陣を切りました。ブランドアイコンとなった蝶々のモチーフをあしらった、数々のライセンス商品はその一例。ヨーロッパではピエール・カルダンが先駆けとなり、「カルダン帝国」と呼ばれるほどのビジネス的成功を収めました。日本でライセンスビジネスの先駆者となったのは森さん。蝶々モチーフを配したハンカチは昭和の一時期、多くの日本家庭のタンスにあったはず。財布やエプロン、食器、タオルなど、雑貨・生活用品に幅広く展開され、ファッションと暮らしの距離を縮める役目を果たしました。
ファッション業界を超えたレジェンド的存在
「ハナエモリ」ブランドの成功を受けて、86年には女性で初めて主要経済団体の一角である経済同友会の会員に選ばれました。日本で最初の女性ビジネスリーダーと認められた形です。94年4月には「日本経済新聞」の看板コーナー「私の履歴書」に登場。伝説的な存在となった、ビジネスの成功者だけが登場の機会を得るという「私の履歴書」への登場は、ファッション業界を超えたレジェンドという評価を印象づけました。
若き逸材にゆだね、チャレンジを見守り続けて
クリエーションの第一線から退いた後は、ブランドを若き逸材にゆだね、チャレンジを見守りました。天津憂デザイナーを起用したブランド「ハナエモリ マニュスクリ(Hanae Mori manuscrit)」でも、毎シーズンのように、ショー会場に姿を見せていました。2014年に開催された東京コレクションでは、女優のティルダ・スウィントン(Tilda Swinton)さんが来日しました。筆者もこのショーは拝見し、印象に残っています。
16年9月に開催された、ショーでも森さんが来場して、ランウェイを見守っていました。当時でもう90代に入っていたのが信じられないくらい若々しいご様子でした。筆者のショーリポートはこちらから。
人気リアルクローズブランドとのカプセルコレクション
森さんの精神は今のファッションシーンにも受け継がれています。たとえば、「スナイデル(SNIDEL)」「ジェラート ピケ(gelato pique)」などの人気ブランドで有名なファッション企業、マッシュスタイルラボ(Mash Style Lab)が手がけ、エレガンスモードで支持されているブランド「CELFORD(セルフォード)」は2022年2月に「HANAE MORI(ハナエモリ)」カプセルコレクションを発表し話題を呼びました。モデルには森泉さんを起用しました。
受け継がれていく「ハナエモリ」流エレガンスの極意
デザインが特別感を帯びていたのは、創り手本人の品格や知性に由来するところが大きいでしょう。ブランドを立ち上げるきっかけになったのは、ニューヨークで見たオペラ『蝶々夫人』でしたが、今から60年も前の60年代にニューヨークでオペラを観劇していたというのは、すごいことだったと言えるでしょう。
持ち前のセンスや美意識、教養などに裏打ちされたデザインが時代を超えた普遍性を宿していたことも、目の肥えた層に支持された理由。流行を追わないタイムレスなアプローチは今のファッション潮流となっていて、森さんの先見性を感じさせます。
業績を振り返ると、あらためてエレガンスの極意のようなものを感じ取ることができます。ときめきと強さが同居するデザインは今の女性からも共感を得ることができそうです。近年はジェンダーレスやストリートなどのテイストが支持されてきましたが、2022-23年秋冬は世界的にフェミニンやクラシックなどが勢いづく気配。再評価のムードが高まる中、「ハナエモリ」の美学はこれからもリスペクトされていくに違いありません。
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