「民族共存のテストケースの挫折」としてのエチオピア非常事態宣言ー日本にとってのボディブロー
国連の統計によると、2017年段階でアフリカ大陸には約12億人の人口がいますが、2030年には17億人、2050年には25億人に増加すると見込まれています。
そのため、市場の将来性を見込んで日本企業も数多く進出しており、例えば南アフリカではトヨタなど280社が操業しています。しかし、近年ではアフリカ各地で政情が不安定化しており、南アフリカでは2月15日に国民や与党からの圧力を受けてズマ大統領が辞任。政治的な混乱が広がることは、その業績や将来への戦略に影響を及ぼすとみられます。
ただし、これは南アフリカに限りません。 アフリカ北東部のエチオピアでは2月15日、ハイレメリアム・デサレン首相が辞任し、16日にエチオピア政府は非常事態を宣言。この政変は、世界でも稀な民族共存のための取り組みが挫折したことが直接的なきっかけになりました。
エチオピアの場合、進出している日系企業は13社にとどまり、直接的な関係では南アフリカのそれに及びません。とはいえ、その不安定化が地域一帯に悪影響を及ぼしやすいものである点では、エチオピアも同様といえます。
民族共存のテストケース
まず、今回の政変の背景となった、エチオピアにおける民族共存の仕組みについて紹介します。
エチオピアの人口は1億240万人で、これは大陸第2の規模。オロモ、アムハラ、ティグライなど約40の民族によって構成されます。一つの国に多くの民族が混在することはアフリカでは珍しくなく、これは各地で分離独立運動が頻発する大きな背景となってきました。
エチオピアの場合、1995年に発布された現行憲法で「エスニック連邦主義」と呼ばれる体制が導入されました。これは各州にエチオピアから「分離独立する権利」を認めるもの。つまり、他の国では抑圧の対象となる「分離独立」を、地域ごとの権利として保障しているのです。
一見奇妙なこの仕組みは、「離婚の権利」と置き換えれば理解しやすいかもしれません。つまり、それぞれが「対等の立場で、一緒にやっていくことに合意する」から一つの運命共同体を作るのであり、もし「一緒にやっていけない」と判断されるなら、関係を解消する権利をお互いに保障する、ということです。言い換えると、「エスニック連邦主義」は、少なくとも考え方としては、それぞれの民族の独立性を最大限に尊重しつつ、その自由意志に基づいて「一つの国家」を作ろうとするものといえます。
「エスニック連邦主義」への道
アフリカだけでなく、世界的にもほとんどみられないこの仕組みは、エチオピアの歴史に基づいて生み出されたものでした。
エチオピアは20世紀後半まで、一人の皇帝が支配する帝国でした。この帝政は1974年のエチオピア革命で崩壊。その後のエチオピアでは、社会主義政権が成立しました。
しかし、中央集権的な社会主義政権に対して、各地に民族ごとの4つの武装組織が成立。4組織は1991年、連合体としてのエチオピア人民革命防衛戦線(EPRDF)を結成。折しも社会主義政権の後ろ盾だったソ連が崩壊したタイミングを見計らい、EPRDFは首都アディスアベバを陥落し、権力を握ったのです。
この経緯から、EPRDF率いる新体制では、特定の民族に対する優遇を避けつつ、国家としての一体性を築くことが重視されました。その結果、世界でも稀な「エスニック連邦主義」が生み出されたのです。
仏作って魂入れず
ただし、どんな制度も、それを運用するのは人間です。民主主義が一歩間違えれば「多数者の専制」になるように、制度の使い方によって本来の理想とかけ離れた結果をもたらすことが珍しくありません。エチオピアの「エスニック連邦主義」でも、時間が経つにつれ、当初の理想とかけ離れた運用が目立つようになったのです。
エチオピアでは1995年憲法のもとで議会選挙が定期的に行われ、4つの武装組織の連合体から4政党の連合体に衣替えしたEPRDFが、議席の大半をEPRDFが握り続けました。社会主義政権との内戦時代にEPRDFを発足させ、初代首相に就任したメレス・ゼナウィの指導のもと、エチオピアは海外からの投資の誘致や農産物の輸出振興を推し進め、2000年代半ばから10パーセント前後の成長率を維持してきました。
ところが、民間企業の起業のための政府系基金が創設されたものの、EPRDF関係者との縁故がなければほぼ採用されないなど、政府とビジネスの癒着も拡大。さらに、経済が順調に成長するほど、メレス首相(当時)の威光は大きくなり、その出身母体ティグライ人が政府や軍で優遇されるようになりました。
ティグライ人は全人口の約6パーセント。それが政治・経済を握る状況に、とりわけ最大人口のオロモ人(34.4パーセント)の間で不満が増幅したことは、不思議でありません。
「エスニック連邦主義」の理念に基づき、あくまで分離独立を主張したオロモ解放戦線(OLF)は、1992年に早くも政権から離脱していましたが、これは後にメレス首相によって「テロ組織」の指定を受け、取り締まりの対象になりました。その後、EPRDFは実質的には「各州の分離独立の権利を表面的には認めつつ、実際にはこれを決して認めない」ことを共通項とする一つの政党として機能し始めました。こうして、世界でも稀な「エスニック連邦主義」は「絵に描いた餅」になったのです。
多数派の抗議
政治・経済を握る少数派に対する抗議は、メレス氏が急逝した2012年頃から急速に広がりをみせ始めました。メレス政権で副首相・外相を務め、繰り上がりで首相となったハイレメリアム氏は、ティグライ人よりさらに人口の少ないウォライタ人(全体の2.3パーセント)。そのため、実質的に政府を握るティグライ人をハイレメリアム首相も制御しきれず、その一方で特にオロモ人からの抗議が噴出していったのです。
この背景のもと、2015年選挙では野党関係者500人以上が「反テロ法」に基づいて逮捕されただけでなく、その不審死も頻発。アムネスティ・インターナショナルは「司法を経ない処刑」と呼びました。
オロモ人の抗議活動が広がるなか、2016年10月にハイレメリアム首相は半年間の非常事態を宣言。ソーシャルメディアへの投稿、頭上で手首を交差させる仕草(抗議のシンボル)、各国外交官のアディスアベバから40キロ以上遠方への移動、夜間外出、「テロリストメディア」の視聴などが禁じられました。
それでも抗議活動が収まらず、オロモ人だけでなくアムハラ人(27パーセント)の間にも広がりをみせはじめました。オロモとアムハラの人口は、合計で全体の約60パーセントを占めます。この背景のもと、2018年1月にハイレメリアム首相は6000人以上の政治犯を釈放。野火のように広がる抗議デモの沈静化を図りました。しかし、その勢いをもはや止めることはできず、辞任に追い込まれたのです。
民主主義と民族共存の食い合わせ
こうしてみたとき、エチオピアの政変には、経済停滞とともに、同国特有の「エスニック連邦主義の挫折」という要因があったといえます。「エスニック連邦主義」の名のもと、実際にはEPRDFの一党支配が正当化されていたことに鑑みれば、今回の政変を受けて、抑圧されていたオロモ人やアムハラ人を中心に「より民主的な国になること」を求める主張が噴出することは不思議ではありません。
ただし、ここで難問として浮上するのが「民主主義と民族共存の兼ね合い」です。民主主義の原理を強調すればするほど、「多数派の支配」に行き着き、それは結果的にオロモ人やアムハラ人が全てを握り、少数派民族が疎外されるという、これまでと逆の構図になって終わりかねません。
同様のことはアフリカ外でも珍しくなく、イラクでは2003年の米軍による侵攻で、少数派であるスンニ派中心のフセイン政権が倒れ、入れ違いに多数派であるシーア派中心の政権が民主的な手続きにのっとって発足したものの、それがスンニ派の排除につながり、これが結果的にスンニ派の「イスラーム国」(IS)が台頭する土壌となりました。
先述のように、どんな制度も、導入しただけで本来の理念に沿うものができるとは限りません。単に制度的・法的に問題のない手順を踏むだけでなく、その理念に照らした深慮がなければ、「仏作って魂入れず」を繰り返すことになりかねないことへの懸念をエチオピア政変は示しているといえます。
北東アフリカ不安定化の加速
ところで、今回のエチオピア政変は日本を含む各国にとっても無縁ではありません。それは「民主主義と民族共存の両立」という次元だけでなく、経済の領域に関してもいえることです。
エチオピアを含む北東アフリカは、地中海からスエズ運河と紅海を抜け、インド洋に至る海上交通の要衝です。世界全体の海上貿易量の8パーセントはスエズ運河を通航しているといわれ、日本のタンカーやコンテナ船も数多く航行しています。
その一方で、この一帯はアフリカでも屈指の不安定地域で、周辺のソマリア、エリトリア、スーダン、南スーダンなどでは内戦やテロが後を絶ちません。このなかにあって、エチオピアは政治的に安定し、経済的にも順調に成長している数少ない例外であるだけでなく、平和維持部隊の派遣や和平調停などを通じて地域の安定化に寄与してきました。
そのエチオピア自身が不安定化することは、海上交通にも小さくない影響をもちます。ソマリアに拠点をもつアルカイダ系の過激派組織アル・シャバーブは、資金調達の一環としてソマリア沖で海賊行為を繰り返す一方、ソマリア政府とともに和平に取り組むエチオピアと対立してきました。エチオピアの混乱はアル・シャバーブの行動範囲を広げることになるとみられます。
日本にとってのボディブロー
既に、日本の運輸企業は北東アフリカを通過するルートを削減し始めています。
世界的な経済成長にともない、スエズ運河を通過する船は増加しており、2017年には1万2934隻が通過し、これは前年比2.5パーセントの増加でした。ところが、日本船主協会の統計によると、スエズ運河を通過した船が2015年には1172隻であったのに対して、2016年には1066隻と前年比で9パーセント減少。その最大の要因は地域の不安定化とみられ、日本の運輸企業は南北アメリカ大陸へのルートとして、スエズ運河からパナマ運河へのシフトを進めています。
ところが、世界全体の海上貿易量の5パーセントが通航するパナマ運河の最大の難点は、混雑と通行料にあります。
もともとスエズ運河と比べてパナマ運河は通航可能な船のサイズがやや小さく、混雑しがち。拡幅工事も進められてきましたが、それは結果的に通行料の高騰につながっており、2017年6月に8万4000立法メートル以上のガスタンカーのそれが29パーセント引き上げられ、45万5080ドルになりました。これは、直接の比較ではないものの、やはりスエズ運河の拡幅工事を繰り返してきたエジプト政府が2017年8月に石油タンカーの通行料をほぼ半額に切り下げたことと対照的です。
目的地や船のサイズにより、スエズとパナマのいずれのコストパフォーマンスがよいかは、ケースバイケースです。とはいえ、エチオピアの政情が悪化すれば、これまで以上にスエズを避ける企業が増えても、さらにそれがパナマ運河の一種の「便乗値上げ」を招いても、不思議ではありません。これに鑑みれば、遠いエチオピアで「エスニック連邦主義」が挫折したことは、民族共存と民主主義の両立の難しさとともに、日本の貿易にとってのボディブローがさく裂したことをも示すといえるでしょう。